第10話 十五万円じゃない
翌日の昼休み。
さくらは、あや、みほ、えり、なな、ゆかの五人と一緒にいた。
いつもの昼食。
いつもの会話。
それなのに、さくらだけは箸を持つ手が重かった。
「……今日、返す」
さくらが言った。
あやが頷く。
「うん」
「一人で行かなくていいよね?」
「もちろん」
みほも頷いた。
「私たちも一緒に行く」
「でも……」
「でも、じゃないよ」
えりが口を挟んだ。
「お金を返したら終わりにしよう」
さくらは俯いた。
「終わるかな……」
その一言に、全員が黙った。
「……分からない」
さくらはスマホを握りしめた。
「お金を返したら、もう私に関わる理由はなくなると思ってた」
「それだけじゃないんでしょ」
ゆかが静かに言った。
「うん……」
「じゃあ、なおさら一人で会っちゃ駄目」
さくらは小さく頷いた。
*
午後。
ながとは、たけしの車の中にいた。
「今日、さくらに会う」
「また?」
「金返してもらう」
「逆やろ」
たけしが笑う。
「俺が返してもらうんちゃう。俺が返すんや」
「お前、金持ってるんか?」
「ない」
「……」
「だから、さくらに会って話す」
「何を?」
「ちゃんと話したら分かってくれる」
たけしは黙った。
その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「ながと」
「なんや」
「金だけ返して帰れよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「うるさいな」
ながとは窓の外を見た。
その顔には、すでに別の考えが浮かんでいた。
金を返す。
そして謝る。
そして――
もう一度、付き合ってほしいと言う。
それでいい。
そう思っていた。
*
仕事が終わる。
さくらは会社の出口で、五人の友達と合流した。
「行こう」
あやが言った。
さくらは頷いた。
バッグの中には15,000円。
封筒に入れてある。
これで終わる。
そう自分に言い聞かせる。
駅前の広場。
ながとはすでに来ていた。
さくらの姿を見つける。
「さくら!」
ながとが手を上げる。
そして――
周囲にいる五人を見て、表情が変わった。
「……何やねん、これ」
さくらの足が止まる。
「あの……」
ゆかが前に出た。
「私たちも一緒に来ました」
「なんで?」
「お金を返すためです」
ながとはさくらを見る。
「二人で話したらええやん」
「今日は一人では会いたくないです」
さくらが初めて、はっきり言った。
ながとの表情が固まった。
「……なんで?」
「怖いからです」
沈黙。
ながとの顔から笑みが消えた。
「俺が?」
「はい」
さくらの声は震えていた。
「私……もう、二人では会いたくありません」
ながとは何も言わなかった。
そして、
「俺、何したん?」
と聞いた。
さくらは答えられなかった。
何か一つの出来事ではない。
電話。
連絡。
会社。
待っているという言葉。
何度も会おうと言われること。
断っても、別の理由をつけて誘われること。
全部が積み重なっている。
だからこそ説明するのが難しかった。
えりが代わりに言った。
「何か一つじゃないと思います」
「……」
「あなたが『好きだから』って言っていることが、さくらさんには負担になってます」
「でも俺、何もしてへんやん」
「会社まで行ったでしょう」
「会いに行っただけや」
「それが怖かったんです」
ながとの顔が歪んだ。
「……俺、そんな悪いことしたか?」
「悪いかどうかの問題じゃありません」
ゆかが言った。
「さくらさんが嫌だと言っていることが、一番大事です」
ながとは黙った。
しばらくして、さくらが封筒を差し出した。
「15,000円です」
ながとは受け取らなかった。
「いらん」
「え?」
「俺、金返してほしいって言ってへん」
さくらの顔が強張った。
「でも……」
「それより、ちゃんと話したい」
「……」
「俺、さくらのこと好きや」
さくらは目を伏せた。
「私……」
「付き合ってくれ」
その言葉に、さくらは首を横に振った。
「ごめんなさい」
「なんで?」
「好きじゃないからです」
ながとの目が見開かれた。
「……嘘やろ」
「嘘じゃないです」
「じゃあ、なんで金貸したん?」
「……断れなかったからです」
「なんで飯食ったん?」
「断りにくかったからです」
「連絡返してくれたやん」
「……怖かったからです」
ながとは完全に黙った。
その言葉だけは、今まで聞いたことがなかった。
――怖かった。
さくらは涙をこらえていた。
「私……最初にお金を貸したから、悪いと思ってました」
「……」
「だから、強く断れなくて……」
「……」
「でも、もう嫌です」
ながとの拳が震えた。
怒っているのか。
悲しいのか。
自分でも分からない。
「俺……そんなに嫌われてたん?」
「嫌いとかじゃありません」
「じゃあ何やねん」
「好きじゃないんです」
その言葉が、何度もながとの頭の中で響いた。
*
けんじは、その日の夜。
たけしから電話を受けた。
「どうなった?」
『……さくら、泣いてた』
「ながとは?」
『黙ってた』
「そうか」
『けんじ、お前の言う通りやったわ』
「何が?」
『あいつ、ほんまに分かってなかった』
けんじは黙った。
『自分が好きなら、相手もそのうち好きになると思ってたみたいや』
「……」
『金を返すだけで終わるはずやったのに、付き合ってくれって言った』
けんじはため息をついた。
「ながとらしいな」
『でも、さくらが「怖い」って言ったとき、あいつ……』
「何?」
『めちゃくちゃショック受けてた』
けんじは少し考えた。
「それで反省した?」
『分からん』
「そうか」
『ただな』
「ん?」
『帰り道で、ながとが言ってた』
たけしは少し黙ってから言った。
『「俺、何で選ばれへんねん」って』
けんじは答えなかった。
その言葉の中に、ながとの問題の核心がある気がした。
さくらを好きなのか。
それとも――
さくらに選ばれたいのか。
まだ、ながと自身にも分かっていなかった。
*
その夜。
さくらは自宅のベッドに座っていた。
バッグの中を見る。
封筒は空になっている。
15,000円。
全部返した。
なのに――
安心できなかった。
スマホを見る。
ながとからの連絡はない。
それでも、いつ来るか分からない。
スマホを伏せる。
部屋の電気を消す。
布団に入る。
しばらくして――
スマホが震えた。
さくらは飛び起きた。
画面を見る。
友達のあやだった。
『大丈夫?』
さくらはすぐに返信した。
『うん』
少し考えてから、
『今日は一人じゃなくてよかった』
と送った。
あやから返事が来る。
『明日も一緒に帰ろう』
さくらは、
『ありがとう』
とだけ返した。
その夜。
さくらは初めて、少しだけ眠ることができた。
一方――
ながとは眠れなかった。
「俺は本気やったのに……」
天井を見つめる。
15,000円。
金は返ってきた。
なのに、自分の中には何も残らなかった。
むしろ――
初めて、自分の「好き」が相手を苦しめていた可能性を突きつけられた。
それでも。
まだ、ながとは思っていた。
「……俺が変わったら、いつか……」
その考えを捨てることはできなかった。
失恋は始まったばかりだった。




