第1章番外 影を知る家
(承前)昊天が新居へ移ると決めた日のことを、
菲菲は今でも鮮明に覚えている。
龍騰大厦の最上階、
夜景を背にした会議室には、二人だけだった。
「総裁。本当に……お屋敷を出られるのですか。」
思わず声が落ちた。
昊天はペンを持ったまま、視線を動かさなかった。
「本社に近いほうがいい。」
それだけ。
それでは理由にならないことを、
彼も菲菲も分かっていた。
昊天の声は冷静で、淡々としている。
だが、その下に隠されているものを読むのは
菲菲の仕事だった。
(本当は、あの家に……いたくないのでしょう)
昊天は言わない。
言えない。
李家の当主が代々受け継ぐ広大な屋敷。
母の死の記憶。
父の厳しさ。
古参の使用人たちの“目”。
叔父派の潜む気配。
少年の頃の弱さを見抜かれるあの空気。
——あの屋敷は、昊天にとって“家”ではなかった。
菲菲は知っている。
だが、それを口にすることは役割ではない。
「セキュリティ面は、今時の高層住宅のほうが優れている。」
昊天は続ける。
「緊急時の動線も短い。総裁として合理的だ。」
そう説明しながら、
昊天自身が、その言葉に守られているように見えた。
合理性。
効率。
安全性。
その仮面の下に隠れた“孤独”に、
菲菲は気づいてしまう。
気づいてしまう自分が、苦しかった。
(……総裁。あの屋敷を出たかったのですね。)
しかし昊天が続けた言葉は、
菲菲の胸をさらに締めつけた。
「……結婚もするのだ。いずれは屋敷に戻らねばならないが、いまは、その時期ではない」
手にしたペンがわずかに震えた。
昊天はそれを気づかないふりで、すぐ書類にペンを走らせた。
(奥様を……あの屋敷に入れない。)
それは、政略結婚の妻を李家の女主人とは認めていないという意味にもとれる。
だが、菲菲の心に刺さったのは別の意味だった。
昊天は気づかない。
自分が今、
自分の心を守るために“家”を選び直した ということに。
李家の屋敷には、決して持ち込めない未来を。
新しい未来は“新しい場所”で始めたいと、
どこかで願ってしまっていることに。
「なにがおかしい。菲菲。」
昊天の声が現実に引き戻す。
「はい、総裁。」
菲菲は深く頭を下げた。
その一歩後ろで、
昊天の背中を見つめながら思った。
(……あなたは、過去と戦うために家を出るのではないのですね。
未来を守るために出るのですね。)
新しい住処は、
昊天にとって初めての“逃げない家”になるのだろう。
そして、
そこに自分は入れない。
影は光に背を向けることはできないけれど、
光のもとへ踏み込むことも許されない。
李家の屋敷を捨てて、
昊天が“未来”へ一歩踏み出したその瞬間を、
菲菲だけが知っている。
それが、
彼女に与えられた孤独な誇りだった。




