第2章(11)会見直後
## 菲菲視点
記者会見が終わったのは、予定より7分早かった。
想定問答はすべて消化。想定外の踏み込んだ質問も、総裁は一切感情を表に出さず処理した。
「法は、姓を見ない」
グループ総裁としてのこのひと言は、今回の騒動を「李家の物語」から龍騰そのものの価値へと、世間の関心を引き戻すには十分すぎるものだった。
株価への影響も、これ以上は拡大しないだろう。
——ここからは、家の問題。
菲菲はスマートフォンを取り出した。
連絡先を一つ選ぶ。
簡潔なメッセージを打ち込むには、二十秒もいらない。
「総裁が、そちらに向かわれます。奥様のお支度を」
理由も説明も不要だ。
あの小さな使用人は、言葉の行間を読む。
控室から滑り出て、スケジュールを確認する。
車はすでに回してある。
警護は最小限、だが隙はない。
全てのメッセージをやりとりした直後、背後で足音が止まった。
「……今の指示は」
振り返ると、ネクタイをきっちり締めたままの総裁が立っていた。
表情はいつも通り、冷静。だが、目だけがわずかに鋭い。
「はい」
否定する理由はない。
「行くぞ」
行き先はひとつしかない。
総裁は大股で歩き出す。
「昊明がな」
総裁は歩きながら言った。
「“菲菲に先を越された”と悔しがっていた」
菲菲はちらりと総裁の横顔を伺う。
「……おまえは、相変わらず手回しがいい」
褒め言葉でも、皮肉でもない。
ただの事実確認。エレベーターの扉が閉まる直前、菲菲は一つだけ付け加えた。
「奥様は、ご無事でいらっしゃいます」
——十分間に合う。菲菲はそう確信した。
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### 昊明視点/空港ビジョン
香港国際空港の出発ロビーは、昼前の喧騒に満ちていた。
キャリーケースの音、アナウンス、英語と広東語と北京語が入り混じる。
昊明はコーヒーを片手に、ふと足を止めた。
巨大なビジョンに映し出されたのは、見慣れた——いや、見慣れすぎた男。
《龍騰グループ総裁・李昊天 記者会見 生中継》
スーツは隙がなく、姿勢は端正。
声は低く、抑制されていて、言葉は最小限。
余計な身振りは一切ない。
周囲が、ざわつき始める。
「え、なにあの人……かっこよくない?」
「総裁? こんな人いる?」
「香港の俳優かと思った」
「……ちょっと待って、左手」
画面が切り替わった瞬間、
書類を持つ手元がアップになる。
——指輪。
「結婚してるんだ……」
「奥さんどんな人よ」
「ずるいー」
昊明は思わず、吹き出しそうになるのをこらえた。
(兄さん……完全にやってるな)
全国どころか、アジア中のお茶の間を殺しに行ってる。
しかも本人はたぶん、一ミリも自覚がない。
「兄さん、やるねえ……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
ビジョンの中では、昊天が会見場を後にするところだった。
カメラはスタジオに切り替わり、コメンテーターとアナウンサーが「『法は、姓を見ません』とは言い切りましたねえ」「創業家出身の総裁で、あれはなかなか言えませんよ」などと感想を述べ合っている。
昊明はポケットからスマートフォンを取り出し、連絡先を一つ選ぶ。
「会見見たよ」
短いメッセージ。
さらに、連絡先をもう一つ。
——呼び出し音は短かった。
『……はいっ』少し緊張した声。
「やあ、えっと……小猫?元気?」
『は、はい……!』
昊明は横目でビジョンを見ながら言った。
「今、会見見てた。兄さん、アジア中で騒ぎ起こしてるよ」
『え……?』
「香港でも、イケメンすぎる総裁ってあちこちで悲鳴さ」
一拍置いて、くすっと笑う。
「兄さんね、もうじきそちらに迎えに行くよ。仕度して、すぐ出られるようにスタンバイしてて」
すると電話の向こうの相手ははずんだ声で、『はいっ!先ほど菲菲さんからも、総裁がこちらに向かわれると連絡がありましたっ!』
昊明は髪をかき上げて、
「なんだよ、菲菲に先越されたかあ〜!あの人はほんと手際がいい。
兄さんは有能な秘書に恵まれて幸せ者だよ」
そう言って、昊明は通話を切った。
(恵まれたのは、秘書だけじゃないね)
昊明はコーヒーを一口飲み、
「……チェックメイトだ。さっさと上海に戻ろう」
誰にも聞こえない声で言った。




