7
彷徨っていた。
暗い暗い森の中。
剥き出しの足は、尖った枝や石に傷つけられ、衣服は泥まみれでボロボロだった。
それでも少女は走り続けた。
皮膚が裂け、血が滲み。
木立の間からボタボタと降る雨が、背中に負った深い刺し傷を容赦なく抉る。
頭がガンガンと熱を持ち、耳鳴りがした。
白い息遣いは荒く、肺が悲鳴を上げていた。
絶望が黒く、足下から這い上がる。
それでもまだ、少女は走り続けた。
捕まれば、残酷に殺されるのだと、知っていたから。
自らに、確実に死が訪れるまで。
命尽きるまで、逃げ続けなければならなかった。
けれど現実はどこまでも非情で。
出っ張った木の根に足を囚われ、彼女の身体が宙に投げ出される。
もういい、もういい、もういいんだよ――。
繰り返し聞こえる慰めの声。
彼女自身の絶望が見せる幻聴だった。
力尽きた少女の耳に、追手の足音が聞こえた。
捕まる前に、自ら命を断たなければ。
しかし。
膝折れ、蹲る彼女にはもう、身じろぎする気力すら残されていなかった。
ここで、死ぬのだ。
愛した世界から無理やり引き離され、還ることもできず。
一度は信じた人に、裏切られ。
冷たいこの地で、短かった生を終えるのだ。
あまりにも理不尽だった。
やり場のない怒りが、絶望が、彼女の心をどす黒く染める。
全てに飲みこまれそうになったとき、淡い光が、彼女を包んだ。
温かなそれは、薄く水色に輝いていた。
幼子を抱くように、優しく。
『もう大丈夫。怖がらないで。貴女を傷つけるものは何もありません』
どこかで、聞いたような気がした。
懐かしい、愛しい人の声に似ていた。
「う……」
呻きとともに、少女が目を覚ます。
うっすらと開いた瞼の奥に、輝く二対の宝石。
「緑の君。お目覚めになりましたか」
青い瞳をした優しげな女の人が、イチカに語りかけた。
そっと声をかけるその人に、不思議そうな目を向ける。
「あな…た……は?」
「私は、あなたのお世話を任されましたイシェリと申します」
安心させるように微笑み、イチカの手を包み込む。
「ど…して……」
「兵たちに酷い扱いを受けて負傷されたところまでは覚えていらっしゃいますか?」
「……はい」
兵士というようりも貴族っぽい男だったような気がする。
「貴女は、皇子弑逆を目論んだ犯人と誤解されていたのです」
「そんな、私は……っ」
「ええ、ご安心ください。全て間違いだったのですよ。今朝、意識を取り戻されたその皇子からーー第三皇子キースハルト様から早馬で知らせが来たのです。栗色の髪、緑の瞳の人物は皇子のお命を救った恩人で、その方を丁重に遇するように、と」
申し訳なさそうにイシェリはイチカを見た。
では、瀕死の重傷を負っていた男は、第三皇子だったのだ。
彼はイチカの本当の姿まで見てしまったのではないだろうか?皇子を治癒したことを、否定するべきだったのではないだろうか?でもその場合は、暗殺未遂の疑惑が払拭されなくなるのでは?
さまざまな疑問と不安が瞬時に浮かんで混乱する。あまり頭の回らない自分には、とっさに対応することができない。
やっかいな事件に関わってしまったのだと、イチカは臍を噛む。
「早まった行動を起こした一部の者達が、あなた様を傷つけてしまったこと、深くお詫びいたします」
「いえ……もうなんともないようですから……手当……してくださったのでしょう?」
イチカは弱々しく微笑んだ。
すぐに許せるわけがない。でもこの人は関係ない。
できるだけ構わないでいてほしかった。
「はい。皇子より遣わされた魔術師が、貴女の傷を癒しました。本当に、申し訳ありませんわ。女性の身体をこのように痛めつけるなど、許されることではありませんもの」
「え……?女性って……」
「緑の君、貴女はご自身に男装の術をかけていらっしゃいましたね。それに気づいた者がおりまして……」
術を解いてしまったのだろう。
「そう、ですか」
「ですがそれが、貴女に敵意を向けていた者の心を覚ますきっかけになりましたの。後ほど、お詫びに顔を見せると思いますわ」
申し訳なさそうに、でも何の疑問も抱かずに、イシェリは言う。
ああ、この人は貴族なのだなと思う。
他者に配慮される側なのだと。
「いえ、そんな。わざわざ必要ありません……」
自分を痛めつけた男の顔など、見たくない。
お詫びだというなら、自分のことはそっとしておいてほしい。
「でも彼との対面はいずれ避けられないものなのです。なにしろ、キースハルト様の腹心ですから。ですが、私が常におそばで目を光らせています。ご安心ください」
「ですが私は、そんなに丁重に扱っていただけるような人間ではありません!」
「いいえ、貴女様はキースハルト様の命の恩人なのですわ。あの方に仕える身として、貴女は私にとっても誰にとっても大切なお客人なのですよ」
疲れ切ったように、イチカは声を出す。
「私は……私をっ!引き倒し踏み躙った人に……会いたくありません……」
イシェリははっとしたように目を見開いた。ようやく本心を口にし、小刻みに震える肩を抱く少女に、己の無神経を悟った。
「……申し訳ありません、緑の君。私、ずいぶんと心無いことを貴女に強いようとしていました。すぐにとは申しません。しばらくは、ゆっくりと傷を癒していきましょう」
宥めるように微笑み、イシェリは気遣わしげにイチカの顔を覗き込んだ。
「まずは、貴女の治療をした魔術師を、お呼びしても?」
「……はい」
王国でも稀少な治癒魔法を操れる魔術師が、自分を治療したという。
皇子が自分をどれだけ重要視しているのかが、痛いほどわかってしまった。
そして、丁重に扱われる、おそらく否応なく皇子のもとに連れて行かれるのだろうことも。
「アートルエン様、こちらへ」
扉に向きなおり、イシェリが優雅にお辞儀をする。
カチャリと音がして、ゆっくりと扉が開く。
身体を強張らせながら、イチカはそれを見ていた。
優しく労わるように、イシェリの手が肩にそっと添えられる。
現れたのは、淡い水色の髪を緩く背中で結わえた、たおやかな人だった。
「ぇ……」
思わずイチカは声を漏らす。
天使のような妖精のような不思議な温かな空気を漂わせた、美しい人だった。
見ているだけで心が洗われるような容姿のその人は、白く滑らかな手を胸に当て、イチカに礼をする。
「緑の君、貴女の治療に当たった治療魔術師、アートルエンと申します」
落ち着いた心地のいい声に惚けていたところ、その人物の態度に驚愕する。
「そんな、あの、アートルエン様?私のような人間に礼を取らないでください!」
イチカは慌てて悲鳴のような声を上げる。
治療魔術師といえば、王国に数人しかいないと言われる。世間知らずのイチカでも知っている。
皇子から派遣されたとなれば、よほど高位の人物に違いなかった。
そんな人が、身元の定かでない自分のような人間に頭を下げるなど、その丁重さの見返りが怖かった。
アートルエンは緩く微笑み、イシェリと同じことを言う。
「貴女は、殿下の大切なお客人ですから。ご自分のことを卑下なさらないでください。貴女のその美しい瞳は、人を惹きつけ、敬服させずにはおかない魅力があります」
困惑した表情を浮かべ、視線をさまよわせた後、イチカは意を決したように二人を見た。
「あの、ではせめて、その……緑の君という呼び方を止めていただけませんか?私の名はイチカと言います」
顔を赤らめながら、イシェリとアートルエンに向かって絞り出す様に声を出した。
二人は互いに目を見合わせ、優しげに微笑んだ。
「では、イチカ様」
「様も要りません。ただ、イチカ、と。敬語も、おやめください」
イシェリは困ったように眉尻を下げたが、アートルエンは穏やかに頷いた。
「では、イチカ、とお呼びいたしましょう」
「貴方は、その……私を治療してくださったのでしょう?悪夢にうなされながら、優しい声と、水色の淡い光を見た気がします」
ひどく怖い夢を見ていた気がする。
アートルエンは少し驚いたように目を輝かせた。
「ええ。覚えていたのですね、イチカ。それは私の治癒の術です。貴女は、心も身体も、ひどく傷ついていた。せめて身体だけでも癒せたことにほっとしています」
痛ましそうに目を細め、跪いたアートルエンはイチカの頬にそっと触れた。
彼女の癒えない傷を思いがけず垣間見たが、自分の力の及ばないことにもどかしい想いを抱いていた。
イチカは頬に触れられ、目を大きくした。
けれど、その手がさらりとたおやかで、温かく労わりに溢れていたので、安心して口許を綻ばせた。
「まあ、アートルエン様が女性に手を触れるなどお珍しいこと」
「え……?」
イシェリの驚いた、けれど可笑しそうな声に、イチカは不思議そうな顔をする。
「え、でも……アートルエン様は女の方でしょう?」
戸惑いながら、イチカはイシェリを見る。
女性が女性に触れることに何の不思議があるのだろう。
イチカが視線を向けた先に、憮然とした表情で寝台の傍らに膝をつくアートルエンが目に入る。
「あ……」
イチカは思わずといったように目を見開く。
「ふふふふふっ」
楽しそうなイシェリの笑い声が広がった。
アートルエンが立ち上がる。
何事だろうとその動作を目で追うイチカの上に、影が落ちた。
「イチカ、まだ貴女の体調は万全ではありません。まずはゆっくりと身体を休めるのですよ」
ふわりと、優しく包まれる。
温かな、優しい香りが鼻を掠めた。
「え」
「何かあればすぐに、私をお呼びなさい」
呆然とする彼女の目に映る、悪戯そうな微笑み。
確かに感じた、滑らかな手のひらの感触とは異なる、しなやかな力強い腕。
気付いた彼女が顔を赤らめる頃にはもう、アートルエンはその場にいなかった。
「ま、まあ!アートルエン様ったら」
呆れたようなイシェリの声が、耳朶を打った。
イケメンは正義……
これ、普通の男性にやられたら嫌悪感半端なかったな、とイチカは思った。




