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降りる客たちと、乗り込む客たちが入れ替わっていく。氷室はその列の最後尾で順番を待った。にわかに今日一日頑張った匂いが、氷室の鼻をつく。おそらく、すぐ前の男からだろう。途端に自分は大丈夫だろうかと心配になったが、あちこち嗅いで確かめるには気づくのが遅すぎた。汗はかいていない。大丈夫なはずだ、と信じるのみ。美優は髪型を気にしているのか、しきりに手櫛で整えていた。
「頭、大丈夫かい?」
美優は照れて、額を擦っている。
「あれ、受け取ったよ。ちょうど遅い時間に腹が空いて、夜中に一人で全部食べちゃったよ」
「ふふ、一気に全部ですか? どんな物がいいかなって、とにかくわからなくて、甘過ぎず、しつこくなくを基準に選んだんですよ」
電車がカーブに入り、美優の重さが氷室にかかる。その間、会話は止まった。
「お礼なんて、もうよかったのに。わざわざ来てくれたんだね」
「お父さんに話したら、ちゃんと礼はしたのかって」
「あぁそう」お父さんね……。
また揺れる。どこにも掴まれない美優は、さっきよりも強く寄り掛かった。それは、あの夜の出来事を思い起こさせたようで、お互いが少々気まずくなる。
「場所、替わろうか?」
そう提案したときにちょうど電車が駅に着いて、氷室たちを含め、乗降口付近の客は一旦降りた。再度乗り込むと、今度は美優が乗降口を背にし、氷室は天井にある荷棚の枠を掴んだ。これで、氷室が頑張りさえすれば、二人が触れることはない。それが残念に思えても、中年は決して口に出してはいけないのだ。
「何時頃だったの?」
「えっと、七時半くらいだったような」
「あぁ、いつもなら普通に帰っている時間だったんだけどね」
「この時期は、お忙しいんですか?」
「そうでもないんだけど……」会社でトラブル発生中、そして、その詳細は……なんて言うわけにもいかないので、氷室は「たま~に、あるんだよ」と、渋い顔を作ってみせた。
やがて中原駅に到着して、乗降口付近の客がまたばらばらと降りた。しかし、ここまでの停車駅と違う点が二つ。
一つ目は、氷室はここから歩いて帰るので、再度乗り込まないという点。
(だいたい、いつもこの電車なの?)口には出せない。これではストーカーと変わらないような気がした。
もう一つは、美優も乗らなかったという点。
「確か、お一人ですよね。夕飯はいつもどうしてらっしゃるんですか?」
美優の背後で乗降口が閉まる。電車は程なくして発車した。
休日に食材を買い込んでおき、四、五日かけて消費する。後半は、駅からマンションとは反対方向にある小料理屋で世話になっている。帰宅時間は早いほうなので、まとめ買いをしなくても、どうにでもなるのだが、なぜだかそんなパターンが一年ほど続いている。
「……と、まぁこんな感じだけど、電車、行っちゃったよ?」
「私、居酒屋にはたまに行くんですけど、そういう小料理屋って行ったことがないんですよ。やっぱり、しっとりとした美人女将なんかがいて、カウンター席で徳利を差しつ差されつなんですか?」
美優は両手を口に当て、ニヤニヤと勘ぐるような目付きで、氷室を見上げた。
どうやら彼女が小料理屋に抱くイメージは、はぐれ系の刑事ドラマのようだ。ちなみに氷室の行きつけである(鶴丸)という小料理屋に、美人女将はいない。豪快に笑い上げるでっぷりとした奥さんと、精気を吸い取られたような旦那が、二人で営んでいた。
「じゃあ、今から行く?」
氷室は笑いながら、話の流れに沿って彼女を誘った。美優の顔に難色が浮かんでも(また機会があれば……そのうちに……友達でも誘って……)あくまで、さらりと諦める心構えを持っていた。
「いいんですか? 連れていってほしいです!」
あそこは、オヤジばかりの常連客で固められていて、そのアットホーム的な雰囲気が気に入っているのだが、若い女性を連れていくと、根掘り葉掘り訊かれるのが目に見えている。さて、彼女とは、どういった関係ということにしておこうか?
「腹、減ってるんだね」
同じ電車にあの男が乗っていて、一緒に降りたことに、氷室は気づかなかった。




