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○の中に鶴が描かれた暖簾を分け、カラカラと鳴る引き戸を開けると、間髪入れずに女将の声が飛んできた。
「いらっしゃい。 ――あら、氷室さん。おかえりやすぅ」
「どうも。二人だけど、大丈夫かい?」
「あらあら、珍しいですやん。氷室さんがそんな綺麗な娘を連れてくるやなんて」
女将の言った、綺麗な娘、に釣られて、大将や常連客までもが、美優を振り返る。
彼女はぎょっとして、氷室の背中についた。
鶴丸にはカウンター席しかなく、図工の授業で作ったようなスツールに、座布団が張り付けてある。通常時は八脚だが、人をぎゅっと詰めて予備のスツールを出せば、十人ほどが座れる。先客は五人。皆、見たことのある常連さんだった。
氷室は、知った顔に目礼しながら右奥へと進み、美優を一番端の席に座らせた。
何も注文しなくても、二人の前にはコップが置かれ、冷えたビールが注がれた。
目の前には大皿でカボチャの煮つけやら、レンコンのはさみ揚げが盛られている。他にも七品くらい並べられている。今夜のお通しは、茄子の青しそ和えだ。
「あの、どういうシステムなんですか?」
美優は氷室に顔を寄せ、小声で訊いた。
「システム? あぁ、いちおう、そこにメニューはあるんだけど……」
氷室の続きに女将が割って入り、
「どれでも指差して言うてや。あたしが取り分けてあげるしな。もうすぐチリメンジャコ入りの卵焼きもあがるんやけど、出来立てをいっぺん食べてみてぇな」
氷室が失笑して「まぁ、こんな感じ」と付け加えた。
それからの美優はよく喋り、よく飲んで、よく食べた。
氷室は今夜も車で送っていくつもりだったので、ビールには手をつけなかった。しかし、それで食うほうに専念できるかというと、そうでもない。四十を越えると食った分だけ太るので、なんとかセーブするように心掛けているからだ。専ら美優の垂れ流しでオチのない話に耳を傾け、彼女の食事風景をチラ見していた。
女同士ということもあって、女将さんがこちら側に常駐しがちになると、常連客たちも自然にこっちよりになってくる。途中、氷室の背中に覆い被さってくる爺さんを押し戻すのには苦労したが、何だか店全体が美優のおかげで盛り上がっていたような気がして、嬉しくなった。
結局、二時間弱も居座った。
「ご馳走様でしたあ。また来ますねー」
「は~い、お待ちしてます。またどうぞぉ!」
美優が片手で暖簾を跳ね上げ会釈すると、常連客全員が手を振った。
「いいお店ですねー」
「そう?」
「どれも美味しかったしー」
「全品食べる人は初めて見たよ」
「お酒がすごく美味しいー」
「まぁ、瓶から注ぐだけだけどね」
美優は酔っている。その証拠に、以前からそうしていたかのように氷室と腕を組んでいた。
氷室は所在なげに左手をポケットへ突っこんで歩くが、肘を少し張り出し、美優が掴まりやすいようにしていた。
駅が近づいてくる。まだ終電には余裕で間に合う時間。しかし、美優は駅前を通り過ぎても、氷室の腕を離さなかった。氷室は最初から送っていくつもりだったので、彼に繋がりを断ち切る理由はない。美優に押されて、引かれて、揺らぎを楽しんでいた。
何だか今夜はイケそうな気がするぅ、と先ほどから囁き続ける、悪い貴文くん、を制御して、あの自販機群の所まで帰ってきた。
「水でも飲んだら?」
キャップを開けて渡してやると、美優は凄い勢いで飲んだ。そして大きく息をついて「あれ、駅は?」ととぼけた。
「もう過ぎたよ。ちゃんと車で送っていくから、もうちょっと真っ直ぐ歩きなよ」
「イエッサー!」と、美優は敬礼してみせる。駄目だこりゃ、である。
美優は車の中でも水をちびちびと飲んでいた。以前送って行ったコンビニの駐車場に着くまでには、だいぶ醒めていた。
「今日は家の前まで行くよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「そう。――それじゃ気をつけてね。それと家の人には……」
「ええ。言いません」――あぁ、まぁ、そうだよね。
美優はしっかりとした足取りで横断歩道を渡り、路地へ消えていった。
――やはり心配だ。コッソリつけて行こうか? いや、止めておこう。
氷室は朝食用にパンを買って帰宅の途に就いた。
シャワーを浴びたあと、遅れを取り戻すかのようにビールを飲んだ。未だ左腕に残る美優の感触に、上機嫌だった。目の前の模型のような帆船に乗ることはかなわないにしても、美優と一緒に豪華クルーズでの旅を妄想した。
甲板で夜風にあたり、美優が少し肌寒いと言えば、そっと肩を抱く。夜空を見上げると、一瞬ここが地上であるような錯覚を起こし、波のうねりで、改めて船が走っていると認識する。(そろそろ中へ戻ろう)と、美優の手を引いて甲板を歩いていると、毛髪が二本落ちている……。
ふと我に返って、帆船模型の甲板部分に落ちている毛髪を、指先にツバをつけて拾い上げた。
氷室の髪は、さらさらと細くてコシが弱い。父はそうでもなかったが、祖父がツルッパゲだった。隔世遺伝という言葉は大嫌いだ。何にせよ、気にすることが一番髪に良くない。そう思って、髪を乾かすために洗面所へ戻っていった。




