9.根音村
朝9時過ぎに身延線富士駅を発ち、約1時間で井出駅に到着した。完全な単線で、ホームは一つだけ。小さなコンクリ製の駅舎を出ると、目の前に予約していたタクシーが止まっていた。
タクシーはオレに気づくと、トランクを開け、タクシーから出てきた。そして、「こちらに入れますか?」とオレのスーツケースをトランクにしまってくれた。
「すみません、待っていただいて」
「いえいえ。行先はどちらですか?」
「根音村って分かりますか?」
「根音村…」
運転手は何かを考えるような仕草をした。
「分からないですか?」
「いえいえ、分かりますよ。いや、最近多いなと思いまして」
「多い?」
運転手は出発してから、オレに回答した。
「この辺りはタクシーがないから、おいつきはだいたい内船から乗るんですよ。井出からも内船からも距離的には大きな差がにゃーでね。それに、呼べば迎車代金で高くなりますからね。でも、この1年くらいかな、井出にタクシーを呼んで、根音村に向かう人がいて」
「運転手さんが何度か乗せたということですか?」
「そうですね、井出の要請受けるのなんて数台しかおらんですしね」
オレはふと思い浮かんだことを訊いた。
「3か月前くらいに、茶髪の若い男を乗せたことあります?」
すると運転手はすぐに浮かんだようで、
「おお、あるよあるよ。前回乗せたのがそんな感じの人でしたよ。てっ、お兄さんの知り合い?」
「知り合いというか、顔見知りって感じですけど。この1年で他にどんな特徴の人を乗せたか覚えてますか」
「うーん、失礼な言い方かもしれんですが、髪がもじゃもじゃの、ちょっと小汚いおじさんも」
岡田教授のことだ、とすぐに思った。オレは岡田教授の画像を検索しようとしたが、あいにく電波がつながらなかったので諦めた。
「その人も、お兄さんの知り合い?」
「いや、一方的に知ってるだけですね。他にもいます?」
「女の人もいましたよ。特徴がないというか、黒っぽい服着た、髪の長い人。マスクしてたから顔は全く分からんですが、東京の人だったと思いますよ」
この女性に関しては全く分からない。
「覚えているのはそれくらいですかね。この女の人も知ってます?」
「いや、全然。見当もつかないです」
「そうですか」
「あ、行先なんですけど、茶髪の男を降ろしたところにしてもらっていいですか?」
運転手は唸り声を出した。
「どこだっけなあ。村役場だった気がするなあ。そこでいいですか?」
オレは見えていないと分かりつつ、うんうんと大きく頷いて、
「そこでいいです」
タクシーは山間をうねうねと縫うように走る。タクシーのメーターはどんどん上がっていき、間もなく8千円を超えそうである。やがて、窓の外に滝のような音が聞こえてきた。
「滝があるんですか?」
「何個かありますね。ここらへんは静岡の方へ流れていく川の源流も多くてね」
「へえ」
「根音村は静岡県なんですよね」
「そうなんですよ。だから辛いというか、根音村は営業区域が違うから、復路といいますか、井出から根音まではお客様を運べますけど、帰りに根音からは乗せられないんです。根音から井出に戻る場合は、根音の個人タクシーを使っていただくことになります」
「個人タクシーがあるんですね」
「たぶん、まだあると思います」
一瞬不安がよぎった。
「たぶん?」
「根音の個人タクシーは1台しかなくて、結構高齢な方だったと思うんでね、その人がやってなかったら、静岡県から来てもらうしかないですね」
「なるほど。静岡から呼ぶことはできるんですね」
「おそらく出来ると思いますけどねえ。でも、お兄さんの知り合いも帰ってきてるんですよね? なら、その数か月前までは個人タクシーが稼働してたってことでしょうし、病気でもしてなければ今でもやってるとは思いますよ」
オレは、五十嵐が帰ってきていないとは言えなかった。
しかし、この回答で考えられることがあった。五十嵐は、朱里さんが心配しているような事件に巻き込まれた行方不明なのではなく、根音村には電波が届いておらずスマフォが使えない状態なのではないかということだ。帰ってきていない理由は、個人タクシーが今動いていないか、静岡からタクシーを呼ぶ金がないかではないだろうか。
「根音村に入りましたよ」
運転手の言葉から間もなく家が点在し始めた。山間に残された集落という感じである。途中、ギーーーーーっというオルダの鳴き声が聞こえた。オレは外の様子を窺った。一瞬見えた小さな祠が怪しそうだ。
家の密度が比較的高くなってきたころ、タクシーがスピードを落とし、右折した。
「到着です」
タクシーは、木造の村役場の前に停まった。井出駅から約50分ほどで1万円を少し超えた。
「個人タクシーのことは、村役場で訊けば教えてくれると思います」
オレは、「ありがとうございました」とタクシーを降り、目の前の村役場に入ることとした。個人タクシーの情報も目的であるが、まずはトイレを借りたかった。