お前は誰だ(6)
邪竜を討ったそのとき、ノォトは垣間見たものがあった。
ああ、これは、前の夢の続きだ。目の前には鎖に縛られた戦乙女と、彼女を戒める大神オーディンと、そしてノォトの母ヒルディースがいた。
ヒルディースは未だ姫であり、少女であったが、果敢にオーディンの前へ立って見せた。戦乙女と並ぶほどの勇ましさはまさに、英雄であった父の妻となろうとする者に相応しいものだった。
(……いいや、そんな母だからこそ、父は)
ノォトはそう思った。束の間の夢である。過去のことなのだから、変えることはできない。であれば、ゆっくり眺めるのも一興だろう。
「娘よ、この私をオーディンと知ってのことか」
「はい。寛大なる我らが父、オーディン様であれば必ずや私の願いを聞き届けてくれると信じております」
ヒルディースはそう言った。オーディンは眉も動かさず、答える。
「お前には、この私に差し出すものはあるのか。ただで願いを叶えてもらおうとは思うまいな?」
それこそが神々の王としての務めである。求めるだけを許さず、与えるだけも許さない。オーディンの法であった。
ぶるり、とヒルディースは震える。しかし毅然として答えた。
「私が子を産んだとき、三日三晩、我が身を貴方に預けましょう」
その言葉は、オーディンの琴線に触れたようだった。ここまで法の番人のごとく感情を露わにしなかった彼は、ついに怒りを表した。
「貴様、よりにもよってこの私に、フレイヤの真似事をするか! 無礼者め、馬鹿な孫も相当であったが、その女もこれか!」
もうよい、とオーディンが言った。
しかし、彼にも王として、あるいは男としての威厳があるのか、ヒルディースに何かをするつもりはないようだった。
「その度胸に免じて、一つ聞いてやろう」
「ありがたき幸せ」
ヒルディースは一礼をする。
「私の願いは一つだけ。かの戦乙女に、この子の名をつけてもらいたいのです」
自分の腹を撫でながら、ヒルディースは言った。
いま、彼女は子を孕んでいる。戦乙女に守られ、戦乙女に告げられたから、その名を彼女に授けてもらいたいというつもりなのだ。
「私に、ですか?」
鎖に縛られながらうなだれていた戦乙女は、甲冑に包まれた頭を上げた。その奥にある瞳が揺れている。
ヒルディースは戦乙女の元に寄る。オーディンは止めたりしない。それが、彼が許したという証拠だった。
「はい。貴女に助けてもらったという証に。そして、貴女の加護がこの子にもありますように、と」
きっとこの子は、私の元にはいられないでしょう。あのひとの子であるから。
ヒルディースはそう言って、戦乙女と視線を合わせた。
「そう、ですね。では……」
戦乙女は何度も何度も繰り返し考えるようであった。
それはそうだ。名前というものはその者を規定する。誰かがその者を呼ぶ。その者も名乗る。
簡単に決めていいものではない。
しかしさほど時間の残されていない彼女は、すぐさまに答えを要求された。
そしてついに、その口が開かれ、名を告げられる。
————ノートゥング。
それは魔剣の真名。ノートゥング。ノォト。
窮地を脱する者、あるいは夜を明かす者。
折れてしまった魔剣は、二度と元に戻ることはありません。
けれども、いずれ鍛え直され、必ずや貴方を守るでしょう。
何度折れようとも、立ち上がってください。
それが貴方の父の想いなのですよ。
ですから私も、貴方に同じものを贈らせてください。
それはまるで、祈りのように聞こえた。
* * *
————ノォト。
誰かが自分を呼んでいる。
とても優しい声だった。
————ノォト。
なんで、そんな風に自分を呼ぶのだ。
————ノォト。
畏敬でもなく、恐怖でもなく。
侮蔑でもなく、憐憫でもなく。
————ノォト。
確かな情を以って、自分の名を呼ぶのは、誰だ。
母やフィオネが呼んでくれたものとはまた違う。
見れば、真っ暗な空間の中に自分はいた。
自分の腕を、脚を縛っているのは鎖だった。振りほどこうにも、頑丈で動かない。
その鎖の先へ視線を送る。
ぽっかりと空いた穴の向こうに続いていた。
そこは城だった。古城であり小さなものだったが、確かに城だ。
茨によって巻かれ、人を寄せ付けない孤高の城。
あそこに行かなければならない。自分の中に、そんな欲求があることに気づく。
この鎖が邪魔だった。力を込めれば込めるほど、強く縛ってくる。
けれども、力を抜いてみればなんということもない。鎖は大きな音を立てて落ちていく。
あとはこの鎖を辿ればいい。
自分の名を呼んでくれた者がいる。自分に名をつけてくれた者がいる。
ノォトの意識は夢から離れていく。決してあの城を忘れはしまい、とノォトは目に焼き付けた。




