お前は誰だ(3)
2016/11/10 修正しました。
そこは一面の荒野だった。いや、元は平原だったのだろう。けれども多くの者に踏み荒らされてしまっていた。それも、相当多くの者である。景色を様変わりさせてしまうには、ひとつ大きな戦があったと考えられる。
ノォトはこんなところにいた記憶はない。最後の記憶は、イマルタの洞窟にぽっかりと空いた谷底へと落下し、気を失ったところである。
ではここが冥府か、と思ったがそういうわけでもなさそうだ。後ろを振り向けば、森があった。荒涼とし、凍えた地である冥府のあるニブルヘイムは木々など無縁であるはずだ。
そして森の中に、何かの気配がある。ノォトはその気配に従い、進んでいった。
奥へ奥へ、複雑なはずの道を、まっすぐ歩く。そしてそこには三人の男女がいた。そのうちの、二人の女には見覚えがあった。
一人は甲冑を身に付け、兜で顔を隠し、夜明け間近の空を思わせる髪色をした女。ずっと夢で会っていた戦乙女である。
もう一人。幼い印象があったものの、いまとあまり変わらぬ姿をしている女。それはノォトの母ヒルディースであった。彼女はいま、男の腕に抱かれて寝ている。気を失っている、と言った方がいいだろうか。
では、あの男は誰だ。ヒルディースを愛おしげに抱いている彼は。ノォトがいままで相見えてきた戦士の中でも、誰よりも強いとわかるほどの気配を持っている彼は。
(まさか……)
アルヴァルトでないなら、一人しかいない。ノォトが出会うことの叶わなかった人物。憧れ、追い続けている、至上の王であり戦士。間違いなく、父王である。
これは夢だ。しかも、誰かの過去の記憶だ。ノォトは確信した。彼が生きていたのは自分が生まれるよりも前のこと。そうでなければ辻褄が合わない。
「……迎えにきた、ということか」
父王が口にした。戦乙女は首を振る。
「いいえ。私は伝えに来ました。貴方たちを待ち受ける運命を」
「運命?」
「我が父、オーディンは決めました。フンディングの願いを聞き届け、婚姻の契約の遂行こそが正義であり、女神であり妻たるフリッガの裁定を受け入れると。貴方には死を与え、その妻はあるべきところであるフンディングの元に戻す、と」
「ふん……婚約の決まっている女を奪ったつけがまわってきた、というわけか」
短い幸せだったな、と父王は言って、眠るヒルディースの頬を撫でた。幸せそうに目を細める。
戦乙女はそれを見て少し黙った。それからまた、口を開く。
「貴方を戦士の館に迎える準備はできています。英霊として迎えられたならば、おおよそ戦士として最高の幸福が訪れることを約束しましょう。死を恐れることはありません」
「いらぬ」
父王は言った。そこにいるのは一人の戦士ではなく、愛すべき者を持った男だった。
「ヒルディースがいない場所など、俺の居場所ではない」
父王の言葉にノォトはひどい衝撃を受けた。立派に戦い、英霊に迎えられたと思っていた父がその実、戦乙女からの誘いを断っていたなど。戦の誉れよりも、一人の女を選ぶと。いままで信じていたものが、崩れていくような音がした。
戦乙女もまた、言葉を失っていた。そしてしゃがみ込むと、父王と視線を合わせた。
「……無礼をお赦しください、王よ。貴方の覚悟に感服いたしました」
彼女の声の色が変わったことに気づく。戦乙女は、ヒルディースの腹を優しくさすった。
「————————————」
戦乙女が何事か言った。それを聞いた父王は、満面の笑みを浮かべる。
「けれども、フンディングにそのことを知られれば、命はないでしょう」
「オーディンもそれを承服したのか。わかっていながら、見過ごすと」
「はい。婚姻の契約は、それに勝ると」
「ならばこの戦、俺が勝つしかあるまい」
そう言った父王は剣を抜いた。折れていない、完全な状態の魔剣だった。込められている魔力は尋常ではなく、持つ者に莫大な力を与えることが目に見てわかった。反面、あれほどの剣を振るうためにはどれほどの技量を必要とするのかも。
ノォトはその魔剣を凝視した。自分が振おうとしている剣。そして、自分が再び鍛えようとしている剣。少しでも多くのことを知るべく、じっと。
「もはや、我が父は貴方の味方ではありません。私が加勢しましょう。勝てずとも、フンディングを討ち取ることは」
「いや、その必要はない。その代わり、ヒルディースを守ってくれないか」
「神の力なしに、運命を打ち破ることはできません」
「どうかな。俺には、神でさえ運命に縛られているように見えるが」
父王はそう言って、強気に笑った。神でさえ縛られている運命を、人がどうやって打破しようというのか。であれば、立ち向かうほかないと。
それきり、戦乙女は何も言わなかった。言えなかった。彼の壮絶な覚悟に口を挟む余地はない。
父王はヒルディースを戦乙女に託す。そして魔剣を手にして、走り出した。
そのとき、ノォトの横をすり抜けていく。初めて見る父の顔を忘れまいとノォトはしっかりと目に焼き付けた。これが最後の出会いになり、別れになると知っていたから。




