<二>戻るもの、戻らないもの
※ ※
「悪魔を祓う者達が、悪魔のために祈りを捧げる。なんて皮肉なんだろう。ね?」
夕月夜。
鎖された御崎ヶ丘一丁目裏手墓地の入口、電柱前。
剥がれ落ちそうな色褪せたポスターの根元に、林檎の缶ジュースと火の点った線香を供え、静かに合掌していた朔夜は背後から浴びせられた声音によって、そっと瞼を持ち上げる。
じゃら。
数珠を握りなおして、すくりと立つ。振り返らずとも、誰が立っているのか分かった。
「そこは“悪魔の墓地”に続く道だそうだね。近頃、新しい墓場の番人が就任したとかどうとか、巷の悪魔が騒いでいるようだけど」
線香の先端から薄っすらと昇る白煙。
鼻孔を擽る香りは、仄かに甘く、そして仄かに苦い。どちらなのか、はっきりとしたことは明言できない。どちらとも受け取れる香りだ。
赤々としている先端を見つめ、朔夜は間を置いて返事する。
「先代の番人は僕達の目の前で殺された。数十分とも言えない短い間の付き合いだったけれど、人柄の良い妖だったよ。行き場のない人間の骨を拾い、その者達を弔う。優しい奴だった」
そんな妖がいたことも、この一年間は忘れていたと朔夜。
普通の生活を叶えたい、もう二度と一般の友人を巻き込まないと決意した一心で、妖を祓うことに専念した結果、善意ある妖の存在が念頭から消えていた。
今度の番人も良き番人だといい。妖もヒトも、双方死者に対して祈ることのできる者であればいい。朔夜は心の底から願った。
「鎖された入り口が、いつか再び開かれることを望んでいるよ。僕と飛鳥は先代の番人の墓を立てると約束し、それができずに道は鎖された」
だから、せめて先代の墓の前で手を合わせたい。
隔たりなく死者を弔い、御魂を守ってきた河童の河治に、感謝の意を込めて祈りたいのだ。
けれども聞き手の祓魔師達は同調をしなかった。
「ボクは道は鎖されたままで良いと思っているよ」
「何故だい?」
「人間と悪魔は別の生き物だ。人間同士ですら諍いの絶えない世界に、別の人種どころか異種族が介入してみろ。想像できる悲劇の連続だろう」
振り返ると力なく笑う巽が肩を竦め、意見を求めてくる。
何も言えずにいると、彼は言葉を重ねた。
歪な生き物は歪な世界でしか生きられない。同じように人間はヒトの世界でしか生きられない。双方、決して交わることのできない存在。それを知っていて、なお同じ世界で生きようとすれば、衝突という名の悲劇が繰り返される。
だから祓魔師の己は決めたのだ。互いの世界の衝立になろうと。
「以前も言った通り、ボク達は悪魔をいるべき世界に還す。それが祓魔師としての志だ。双方の世界がはっきり分かれていれば、此の世界に悪魔がいなければ異種族の悲劇は起きない」
「悲劇ばかりとは限らないんじゃないかい?」
「それは、君達がたまたま白狐という幼馴染を“救えた”から言えることなんじゃないか?」
澄んだ瞳が朔夜を射抜く。
いつも自分達にライバル心を燃やしている目とは、一味も二味も違う。
「悪魔を祓ったことでヒトを守ることができれど、悪魔を守ることはできなかったボク達と君達は違う。どちらか守らなければいけなくなった瀬戸際で、ボク等は同族を選んでしまった」
祓魔師としては最高の選択肢でありながら、それが本当に良かったどうかは分からないと巽。
もしも悪魔が悪魔の世界に身を置いていたら、信頼を寄せていた異種族から祓われることも、信頼を置いていた祓魔師が悪魔を祓うような悲劇もなかったことだろう。
救えなかったからこそ、祓魔師は異種族に非道でなければならない。甘い感情は双方をより傷付ける。
「君達はこれから先も白い狐の悪魔と共にいるようだけれど、本当に彼を祓わないと確証を持てるのかい? それこそ安全だといえる存在かい?」
先の視える悲劇が起きるのであれば、白狐は還るべき場所に還らなければいけないのでは?
疑問を抱く巽の陰りある微苦笑が、ピンと張りつめた空気を崩した。
今のは戯言だと片手を振り、彼は相棒を呼んで踵返す。
巽の右の手に握られるロザリオと、誰かの供え物であろうビニール袋越しのポッキーを目にし、思わずその背に向かって声を張る。
「逃げてばかりじゃ何も解決しないと僕等に教えたのは巽、お前だ。僕達はもう逃げない。異種族の衝突から逃げない。覚悟の上で、幼馴染と生きていくと決めた」
向こう二つの歩みは止まらない。
夜道に消えていく祓魔師に言葉を投げ続ける。
「白狐を祓う日が来るかもしれない。安全だと言えない日が来るかもしれない。同族を選ばなければならない日が来るかもしれない。それでも、あいつが幼馴染である事実は誰にも曲げられない。
お前が悪魔を祓ってもなお、悪魔に祈るのは、そこに思いがあるからだろう?」
ほんの瞬き、足を止めた巽が一瞥してくる。闇夜に浮かぶ彼の眼は確かに、穏やかな目をしていた。
「祈りがせめてもの手向けになれば良い。これは祓魔師の都合の良い強がりだよ。祈りが悪魔にとってなんの慰めになるんだろうか」
消えゆく足音に耳を澄ませる。
姿かたちは消えても、微かに聞こえるアスファルトを踏みしめる音。それが完全に消えた頃合いを見計らい、肩を並べた飛鳥が口を開く。
「私達が妖祓を続けるかどうか、それによってショウくんとの付き合い方が変わるんだよね。けど、それはショウくんの調伏うんぬんで決められない。結局、それを言い訳に逃げていることになるから」
「癪だけど早乙女達を見習わないといけないようだね。あいつ等はあいつ等なりに、祓魔師の運命を受け入れ、自分の道を見つけ出したのだから。ま、僕達と考えのそりは合わないだろうけれど」
祓魔師ふたりは今から祈りに行くのだろう。
先日、死霊食いと戦い、散っていた動物憑きと名も知らない御魂達を。方角から予測できる。否、行き先など想像しなくとも分かる。
数分前に寄り道した場所だ。自分達と同じ目的で、此の地を訪れたことくらい容易に想像が出来る。
「喜怒哀楽を宿した歪な生き物、それが妖、か。彼等にとって、人間の方がいびつに見えるのかもしれない」
薄汚れた空気と喧騒が満ちる世界で、飄々と生きていける人間。
こよなく自然を愛する妖にとって、何故このような環境で生きていけるのか首を傾げるに違いない。
普通の人間には視えぬ妖が近くにいることに気付き、朔夜は流し目を向けた。
妖が活発的に活動する時間であるためか、いたるところに歪な生き物を見かける。見慣れた化け物たちは、相変わらず妖祓の自分達を見ると姿を隠してしまう。
少し寂しい気持ちになるのは、此方の心境に変化があったせいだろう。
妖の子が自分達を見つけ、好奇心旺盛近寄ろうとするものなら、親の妖が大慌てで止めに入る。
これが妖と妖祓の関係性なのだ。
これからも妖を祓い続ける職に就くのであれば、彼等から盛大に怯えられる存在となろう。
当たり前のように過ごしていた日常に、ほんの少し虚無感。
彼等にとって別の存在となりたいと思ってしまう。少なくとも、怯えられる存在ではない何かになりたいものだ。
閑話休題、ありふれた日常は戻ってきた。
瘴気が五方結界に封ずられることにより、凶暴性を増していた妖は落ち着きを取り戻し、以前より人を襲わなくなっている。
後遺症に苦しむ妖が牙を剥くこともあるが、なるべく保護する形を取り、妖側に彼等を引き渡すようにしている。無暗に調伏すると妖と対峙しかねない。
それを学んだ二人は、妖達を祓う行為は歪な彼等を見極めてからだと考慮している。
戻ってきたといえば、もうひとつ。
バスで地元まで戻ってきた朔夜と飛鳥は、その足で夜の町を回る。
表向きは“妖祓”としての見回り。真意は強大な妖気を感じ取ったため。目的ある二つの足は、早足で団地内にある公園に赴く。
先客がいた。ブラコンを支える骨組みのてっぺんに腰をおろし、有意義に三日月を眺めている。
「ショウ」
赤い双眸が地上を見下ろす。
白髪、白い毛並みの尾と耳、同じ色をした浄衣を纏う妖。一尾の妖狐、白狐の南条翔だ。月光を浴び、体毛が艶やかに光っている。
二人の姿を確認した彼が軽やかな動きで、地面に飛び下りた。十メートル間隔で向かい合う。
「おかえり。妖の世界に行っていたの?」
飛鳥の問いに、狐は小さな綻びを見せる。
たった今まで妖の世界にいたと返事する彼は、またすぐに向こうへ戻るという。公園に来たのは気まぐれで、なんとなく此処で月夜を眺めていたかったそうだ。
「それに、お前等の顔も見たかったからな」
真の理由を述べる幼馴染につられて笑ってしまう。
化け狐と化した幼馴染の南条翔は、人の世界に再び身を置き始めた。
曰く、妖の身分になろうと、此方の世界には家族がいる。後遺症に苦しむ妖達を見守るためにも、百年は人の世界で暮らしていくのだそうだ。
来年の卯月には予想していたとおり、十代目南の神主となるため、妖の世界にも度々戻るという。
今は十代目に就任するための修行をしつつ、受験生として大学に合格することを目標としている。
簡単なようで、彼にとって大変な日々となろう。
なにせ、幼馴染は一人前の妖となった化け狐。本格的に昼夜逆転しているため、朝昼学校に通うのも苦痛となっている。
今日も朝から眠りこけそうになる彼と共に学校へ登校したのだから。
「朔夜と飛鳥は仕事中か?」
向こうの疑問に一応仕事中だと告げ、首肯する。
「だったら、今の俺達は相容れぬ者達だな」
おどける幼馴染に余裕が垣間見える。
冗談を口にできる関係に戻れたのだと、肌で実感した。一方で、彼の言う通り、自分達は相容れぬ者達。戻れなくなった関係でもある。
「おかげさまで君からのお誘いがなくて寂しい思いをしているよ。多忙なことは承知の上だけど、たまには息抜きがてらに遊んでくれないかな」
「ね。ショウくんったら、修行ばっかりだもん。つまんないよ」
「ドタキャンばっかしていたお前達が言うか?」
翔は正真正銘の狐の化け物となった。そして、十代目南の神主としての天命を受け入れ、南の地を統べる者となる。妖祓の朔夜や飛鳥にとって最も天敵となる存在。
けれども、覚悟を決めて傍にいる。
いつかまた、彼や妖と対峙することが来ようと、自分達は決めたのだ。妖の幼馴染と共に生きることを。
「ショウくん。本当に十代目南の神主になるんだよね」
飛鳥が念を押して聞く。
修行ばかりしている彼の身を案じ、白狐に憂慮を寄せる。
なのに、彼は何もかも吹き飛ばすように笑い退けるのだ。
「ああ、俺は十代目南の神主になるよ。夢は妖と人の共存できる地にすること。誰かが架け橋にならないといけないのなら俺がなる。許し合える関係になれたら、と思うんだ」
そうすれば妖が妖祓に怯えることもなくなり、妖祓が妖を祓うこともなくなる。
だから翔は目指すのだという。高望みだと分かっていても、妖と人が共存し、許し合える関係を築けるよう努力する、と。
しかし、朔夜は知っている。
そのために翔は沢山のものを捨てなければならないことを。
例えば普通の妖が送る平穏な日常。例えば子として甘えられる気持ち。例えば、異性を想う情。
彼は捨てたのだ。飛鳥に対する恋愛感情を。
そうしなければ神主になれないと知っている。そうでなくても、彼は妖の自分と人の妖では結ばれないことを知っている。
翔自身は人間だった頃の感情はすべて妖の世界に持っていくと言っていたが、実質、彼は伴侶を作ることができない。これから先、想い人ができても結ばれることができない。それがどんなに残酷なことだろうか。朔夜には計りかねる。
同じく気持ちを知っている飛鳥に事を尋ねれば、せめて告白だけはして欲しかったという。
想いを受け止め、感謝することはできたのに。そう呟く彼女の横顔は切なかった。
朔夜は気付いていた。
彼女の幼馴染を想う気持ちの中に、秘めた恋慕が宿っていることを。今は己に恋慕が向いているが、奥底では翔にも向いていたのではないか。
今はもう知ることのできない真相だが、なんとなく朔夜はそう思った。
「あ、」
翔が勢いよく振り返る。
正門から住宅街に続く路の向こう。電柱に隠れて、此方の様子を見つめてくる狐が二匹。キタキツネと銀狐が交互に一声鳴く。
同胞のお迎えだと気付いた幼馴染も尾と耳を出し、彼もまたクンクンと小さく鳴いた。それはそれは、嬉しそうに鳴いた。
人間でなくなった幼馴染の一面は、未だに戸惑いを覚えるけれど、もう無理にヒトでいて欲しいなど頼まない。
妖となった彼は妖として生きていく。
自分達はそれを受け入れなければならないのだ。受け入れがたい現実もあれど、翔は人間ではなくなった。それを受け入れなければならない。
「ショウ。行って来いよ、仲間が待っているよ。あの二匹は向こうの家族なんだろう?」
会って間もない翔の背を押す。
忙しなく尾を振っている白狐は、同胞達の下に行きたくて堪らないのだろう。
朔夜の一声により、翔は満面の笑顔で大きく頷いた。また行って来るよ、眦を下げる彼にひとつだけ聞く。妖になった今の自分を。幸せなのかを。
彼は間髪容れず、こう答えた。
「俺は妖になれたことに誇りを持っている。自分の生きる道を見出せたことも、本当の意味でお前達のことを知れたのも、妖になったおかげなんだ。これから先、俺はあの家族を、同胞達を守っていきたい。同じように人の世界を尊重したい」
視線を同胞に戻し、翔は言葉を重ねる。
「お前等みたいに妖を受け入れてくれる人間がいるんだ。傷つけあう日が来ようとも、それを乗り越えて許しあえる仲になれると信じている。信じられるよう、努力していく。妖になれて幸せだよ」
朔夜と飛鳥が見守る中、翔は大きく地面を蹴って駆け出す。
風と同化する彼は見る見る姿かたちを変え、一匹の白い狐となって二匹の下へ。甘噛みをし、戯れあう三匹の狐。彼等なりの挨拶なのだろう。
白い狐が此方に向かってクオンと鳴く。軽く手を振ってやり、朔夜は帰っていく妖に伝えた。
「僕は妖のことがあまり好きじゃない。でも君達のような善意ある妖がいることも知っている。ずっと一緒、それは確かに無理だろうけど、どこかで繋がりは持てる。僕らはまた傷つけあうかもしれない。同じように支えあうこともできる。そうだろ?」
じっと此方を見つめてくる狐達に努力し合おうと、綻びを見せる。
「ショウ、僕達は人の世界で同じことをしよう。架け橋はお前ひとりで為せることじゃない。だろ?」
白い狐は同胞達と共に天に昇っていく。
朔夜の気持ちに応えるかのように三匹は高らかに鳴き、彼等は悠々と夜空を翔けていく。妖の世界に戻って行くのだ。
また朝日が昇る頃、彼は戻って来る。その時は惜しみなく「おかえり」と言ってやらなければ。
「行っちゃったね。ショウくん」
物寂しそうに吐息をつく飛鳥に、引き留めた方が良かったか、と視線を流す。
彼女はかぶりを左右に振り、これで良かったのだと微笑を零した。
「ショウくんは私達が情けなく繋ぎ止めていたから、幼馴染の関係に執着していた。彼は世話好きだから、私達を放っておけなかったんだよ。
でも、ショウくんは私達から卒業した。もう、幼馴染を守るばかりの彼じゃない。私達もショウくんから卒業しないと」
常に不特定多数の人間を守ってきた朔夜と飛鳥にとって、直接自分達を守ってくれる頼もしい存在が翔だった。
守られることで一般の人間と変わりない生活を送れる。胸の奥底で、それを信じ、彼の優しさに甘んじていた。今も甘んじたい己がいると飛鳥。
けれども、それでは彼の夢の妨げになる。
「ショウくんに見合う幼馴染にならなきゃ。守られるばかりじゃ、申し訳ないもの」
本当にそうだ。
互いに幼馴染という関係から卒業し、二本足で歩きださないといけない。
卒業することはまったく悪いことはではない。各々新たな道を自分で暗中模索しながら、歩くのだから。
一足先に翔は道を見出し、己の信じた道を歩きだした。自分達も見習わないと。
「ショウは双方の世界の共存を望んだ。架け橋になりたい、だなんて理想高いことを言って。だけど、それは一人じゃ無理だ」
「うん、私もそう思う」
「だったら一人より二人、二人より三人。人数を増やせば、可能性が高くなるとは思わないかい? 例えば小数単位の確率で可能性が上がるとしても、可能性がそこにあるなら、努力してみてもいいんじゃないかと思う。しつこさはショウから学んだしね」
現実問題、挫けそうになるほどの小さな可能性なのかもしれない。
だが、小数点という小さな世界でも自分はそれに懸けてみたい。許し合える関係を夢見たい。
自分達のように傷付けあっても尚、共に生き、支えられる関係が築けるのだ。
幼馴染は傷つけあう日が来ようとも、それを乗り越えて許しあえる仲になれると信じている。信じられるよう、努力していくと決めているのだから、自分もそれに便乗したいではないか。
「飛鳥、ほんの少しだけ妖祓で良かったと思えたよ。本当の意味で妖を知ることができる、契機を見出せたんだからさ」
自分達は詫びていない、傷付けあった日々を。刃を向けたあの瞬間を。
互いに譲れない立場があったのだと知っているから。だから。詫びの代わりに自分達は許すのだ。こうして人の存在を、妖の存在を。
そう思えば、ああ、妖も愛おしく思える日がくるのだろう。
今は妖のすべてを好きになれずとも、心の底から愛おしく思える日が、朔夜も、飛鳥もくることができるのだろう。そうだと信じていたい。信じて生きていきたい。




