<十五>赤い狐の悪魔、現る
ようやく同胞の下に辿り着いた白い狐は鼻先で銀狐の体を押した。
何度も鼻先で押し、反応を確かめている。失神していた銀狐が目を開けると垂らしていた耳を立て、白い狐が顔を摺り寄せる。銀狐もまた白狐の無事を喜び、力なく尾を振って相手の顔を舐める。
妖狐の会話は分からない。
ただお互いがお互いを心配し、庇われた方は怪我を負った相手を嘆き、庇った方は相手の無事を嬉々している。それだけは理解できた。
「朔夜くん。あの子、前に拾った体毛の妖の一匹だよ」
自分と同じように戸惑いを露にする飛鳥が口を開いた瞬間、弱っている筈の銀狐が身を起こして白狐の胴を覆うように倒れ込んでくる。
足を負傷していた白狐は支えきれず転倒してしまった。自分達が同胞を傷付けるとでも思ったのだろうか。銀狐が白い狐の体にしがみつき、守ろうと必死に盾となっている。白狐が鼻先で銀狐の体を押しても妖祓から同胞を助けるため、盾になろうとするばかり。
言いようのない罪悪感がこみ上げてきたのは何故だろうか。
妖祓なのだ。妖を傷付けてしまうことは日常茶飯事。人間と対峙している関係柄でもあるため、こうした事例もあって当然。
脳裏では分かっているのに、心に一点のシミができる。小さなシミは急速に不安と、戸惑い、そして己のした行為に対する畏怖が混じり合って広がっていく。
何もできずに佇んでいると銀狐が力尽きたのか、ついに頭を垂らして四肢を放った。
白狐が何度も鼻先で体を押し、起きるよう態度で示すがまったく反応がない。
居ても立っても居られなくなったのだろう。白狐は力任せに銀狐から這い出ると、何度もクンと鳴き、頭を体にこすり付けた。ああやって傷付いた同胞を慰めているのだろう。時折顔を舐め、力なく尾を振って相手を呼びかける姿はなんとも哀れで痛々しい。
朔夜は今しばらく光景を見つめていたが、情に流されてはこの仕事はできないと気持ちを切り替える。
努めて傷付けないように捕獲はするつもりだが、自分達は人間の味方であり、妖を祓う者。妖に情けをかけることは許されない。
「……飛鳥。捕縛、しよう」
言葉を失っている相棒に声を掛ける。
まったく反応を示さない飛鳥はただただ狐達のやり取りを、悲痛な面持ちで見つめていた。
不意に持っていた呪符を真っ二つに破く。それにより白狐にかかっていた術が解け、妖は痛みから解放された。先程よりもスムーズに動く白い狐に安堵の面持ちを浮かべる彼女。驚く朔夜に対し、飛鳥はこう答えた。
「もしも私があの子なら痛みが邪魔で仕方が無いと思う。妖祓として間違ったことをしたのは分かっている。でも人として間違ったことはしたくない。そう思ったから」
人として間違ったことをしたくはない。
朔夜は言い返す言葉も見つからず、視線を妖狐達に戻した。白い狐は軽やかな足取りで銀狐のまわりを歩き、懸命に介抱しようと頭を体にこすり付け、顔を舐めていた。既に妖祓の存在など念頭にないのだろう。一心不乱に銀狐の解放に努めていた。
光景を目にしていた飛鳥が意を決したようだ。握り拳を作り、妖狐達に歩み始める。
名を呼んでも無視されてしまう。朔夜は彼女の心意を容易に見抜いてしまった。飛鳥は傷付いた妖狐達を保護しようとしているのだ。捕獲ではなく保護をすることで、傷付いた妖を手当したいと思っているのだろう。
それについては朔夜自身、反対したい気持ちなのだが今は止めても無駄だろう。飛鳥の行動を見守るしかできない。
相棒が歩むことにより、白狐の動きが変わる。垂らしていた耳を立て、弾かれたように飛鳥を凝視すると、急いで銀狐に覆いかぶさって庇う素振りを見せた。これ以上、同胞に手を出さないでくれと言わんばかりの態度だ。
それにとって飛鳥の自然と足を止める。 観察するように此方を見つめている白狐は再び耳を垂らし、もの哀しげに視線を逸らす。やはり白狐によって、飛鳥の行動は善しはしなかったようだ。白狐の眼には確かな恐怖が浮かんでいたのだから。
と。
『アレハ銀ノ狐。欲シイ、チカラガ、欲シイ』
『宝珠ノ御魂。アノ、チカラ、サエ、アレバ』
『次ノ、南ノ神主、ニ、我コソ』
前触れもなしに団地の奥に潜む闇夜から低い囁きが聞こえた。
貪欲に囁き合う声音は醜悪すら感じる。
朔夜が闇を見つめると、向こうに無数の妖力と共に不気味な赤い点が見え隠れしている。点はぎょろぎょろとした妖の眼光だった。低級の妖が此処、団地の公園に集約している。肌で感じる数の多さに朔夜は背筋をゾッと冷やした。
日々妖を退治しているというのに、その功績を嘲笑うかのような数だ。
どこの闇に潜んでいたのか、妖達がのそりのそりと姿を現す。 三白眼を持つ輩、三つ目を持つ輩、角が生えている輩に長い舌を持つ輩。地を這う者、空を飛ぶ者、体格は大小さまざまだ。四方八方を取り囲むほどの膨大な数に悪寒を感じた朔夜は、飛鳥に構えるよう喝破する。
急いで相方が呪符を取り出し、身構える。
朔夜も数珠に霊力を集約し、念を唱えて集った妖を調伏にかかったが所詮一部にしか過ぎない。
輩は消えていく同胞など目にもくれず、何かを目指し公園に侵入してくる。
何を目指しているのか、それは妖の後を追うとこで把握する。
妖は妖狐達を狙っていた。銀狐に狙いを定め、それに目掛けて飛びつこうとする妖ども。不遜な輩に業を煮やし、白狐が同胞である妖達の喉元に食らいついて食いちぎっている。集った妖達は揃いも揃って銀狐を狙っているようだ。
それに気付いた朔夜は狐達を守る立場に回った。あくまで彼等の生態を知るため、捕獲するためだと言い聞かせるが、妖狐達を守りたいと脳裏をめぐる真意はべつにあるのかもしれない。
他所で飛鳥が呪符を放ち、地を蹴って走り出す。明らかに朔夜とは対照的な態度だった。
「その子達にっ、手は出させない。私が相手だよ!」
傍らで銀狐を守ろうとしている白狐は肉片を口から出して毛を逆立てていた。
白狐は見るからに怒り心頭しているようだ。同胞と呼ぶべき妖達から大切であろう銀狐の身を狙われ、低く唸り声を上げている。三尾を地に叩きつけ、幾度も吠えた。威嚇の一声をも無視し、無礼者達が牙を柔らかな銀狐の体に立てようとする。
滑稽な光景だと朔夜は思った。
同胞を守る光景を目にした直後の、同胞を狙う醜悪な光景。妖の世界にも色々事情があるのだろうが、今の光景はなんとも醜い。
数珠を撒いた右の手で三つ目の獣型妖を霧散し、背後に回ってきた妖鳥類に拘束の術を掛ける。祓っても祓っても集ってくる妖達の異様なしつこさに鳥肌が立った。たかが銀狐一匹にこれほどの妖が集う理由が、朔夜には分からなかった。あの銀狐や白狐に何かあるのだろうか。それこそ同胞から狙われるような何かが。
「数が、本当に多い。飛鳥、呪符は足りそうかい?」
「正直微妙……こんなにも妖が現れるなんて想定していなかったから」
飛鳥の呪符が切れたら、主戦力である片割れを失うということになる。
護身用の術は身につけているものの、主力の中心になるのは朔夜ひとりになることだろう。さすがにこの数をひとりで片付けるには骨が折れそうだ。低級の妖の中には中級の妖も見受けられ、苦戦を強いられるのは目に見えている。どうしたものか。
妖狐達を一瞥する。
丁度、地を這う犬を模ったような妖が紫色をした長い舌を出し、大量の涎を垂らしながら銀狐に直進していた。
すぐさま銀狐を跨ぐように先回りした白狐は降り立つ。輩はくわっと赤い口を見せ、四方八方を取り囲む妖達に眼を飛ばした。遠い空に吠え、狐はその身に宿っている妖力を外に放出。妖の群の一部が銀狐に飛びかかる、その瞬間のこと。
白狐に生えている三つの尾が、長い脚が、体毛に包まれている体が白濁の光に包まれ、一瞬にして爆ぜた。銀狐とさほど変わらなかった体格は三回りほど大きくなり、尾は天に向かわんばかりに伸びる。犬歯はより鋭く、太くなり、白狐の額には勾玉を模ったような模様、体毛とは対照的な漆黒を帯びている二つ巴が表れた。光に巻き込まれた妖達は存在ごと消滅し、塵と化して夜風に運ばれる。
闇に住む妖達のどよめきの声が上がった。
あれは南の神主の象徴。まさか次の神主が現れたのか。まだ見習いなのか。宝珠の御魂はあの狐に宿っているのか。様々な声が聞こえてくる。
「さ、朔夜くん。これは」
飛鳥が意見を求めてくるが、朔夜にだって何が何だか分からない。
「南の神主」
どこかで聞いたような単語だと呟き、白狐を見つめる。狐は地を蹴り、宙を翔る。尾に青白い炎を宿らせ、容赦なく妖達に放った。身を焦がして塵と化していく哀れな同胞 達になど目もくれず、地に着地した白狐は生存している低俗を冷然と見据える。
月光を浴びている妖狐の存在そのものが神々しい光を放っていた。息を呑んでしまう。これが、白い狐の本来の姿。
「一尾お前さんに向ける笑みくりゃさんせ。二尾お前さんと悲しむ涙くりゃさんせ」
第三者の声音。
張り詰める空気を裂くように、どこ知れないわらべ歌を口ずさんでいる輩の姿は未だ見えない。
呼吸が止まりそうになった。白狐の強大な妖気が霞み、それに上塗りをするように新たな妖気が現れた。白い狐の妖気など比ではない。あの狐の妖気が可愛いと思えるほど、近付いてくる妖気は熾烈に渦巻いている。
「三尾慕情の花が咲き、四尾別れを惜しむ情もあり」
次第、次第に大きくなる歌声に連動するかのように、闇夜に溶け込む妖達が怯えを見せるようになる。
よほどの恐怖なのか体を竦ませ、一向に動こうとはしない。
「五尾切なさ時にあれども、六尾怒りで我を忘れることもあれども、あるいは七尾弱き心に打ちひしがれることもあれども」
歌声の主がようやく姿を露にする。
輩は大きな和傘、赤い下地に白の弧を描いた蛇の目模様の傘を差していた。狩衣、帯、袴まで見事に白に染まっている輩は浄衣姿である。
「八尾強き心が芽吹き、九尾お前さんと生きる喜びに目覚めぞよ」
しかし従来は被っておかなければならない立烏帽子は被っておらず、紅の長髪がよく白に映えた。輩は若き男、背の向こうには紅く長い尾が六つ伸びている。頭には狐の耳が立っていた。
「嗚呼、九つ尾っぽにゃ情がある。まことに嬉しきかな嬉しきかな――これは妖狐のわらべ歌じゃ。素敵じゃろ?」
クスクスっと笑みを零す男は、糸目で殆ど見えない瞳を和らげる。開眼しているのかどうかすら怪しい。
青年は妖狐だった。人の容こそしているが、あの尾と耳はまぎれもなく狐のもの。
白狐に会釈をし、「誰じゃ。わしの子を泣かせているのは」妖はすべて神のこども。すなわちそれは神主のこども。愛すべきこどもを泣かせる輩は、すべて神主の敵。謳う彼は一変して表情を硬くすると、「わしは今機嫌がええ」命惜しくば去るがいい、地を這うような低い声を出す。
「もっとも、同胞を狙った落とし前はつけさせてもらうんじゃがな」
それは白狐に向けられたものではなく、妖祓に向けられたものでもなく、公園に集う妖に向けられたもの。
我先にと言わんばかりに銀狐を狙って目をぎらつかせていた輩達は、これまた我先にと言わんばかりに身を翻して闇を目指す。竹で出来た傘の柄を握なおし、青年は傘で自分のまわりを薙ぎ払う。ぶわっと風圧がその場で白い螺旋をえがき、次の瞬間、闇夜に消えようとしていた妖の体が発火。めらめらとした紅い炎が彼等を次々呑み込んでいく。
金切り声を上げて消滅していく妖達に鼻を鳴らし、
「下衆にお似合いの最期よ、お前等のせいで他の妖達が迷惑しているんじゃ。これは制裁じゃよ」
そう言って蛇の目傘を折りたたむ。
男が白狐に振り返る。
銀狐を守るように身構える白狐は、相手と面識がないようだ。募る警戒心を最大限にまで高め、青年を威嚇した。
気にすることなく男は慈しむように笑声を漏らして白い妖狐に歩んだ。
「わしは六尾の妖狐。赤狐の比良利。またの名を、四代目北の神主と申す。主が新しい南の神主じゃな」
北の神主。
先程から神主という言葉が妙に記憶の片隅を燻る。“神主”どこかで聞いたことがあるが、はてどこで。
比良利と名乗る青年は白狐の巨体を見上げ、そっと鼻先に触れる。
「主にはまだ妖型は早い」
元に戻るように告げる。もう誰も傷付ける者はいないから、そう付け足して。
返事ができずにいる白狐は身を挺して守っている銀狐に、そっと目を落とした。つられて視線を落とす比良利は、銀狐の容態を診るために和傘を地に置いて片膝を折る。 焦げた体毛に触り、失神している狐の頭を撫でた後、比良利は自分の妖力を相手に送れるか? と、相手に尋ねてきた。
「主の妖力は、オツネの型と同じもの。再生能力を早められるんじゃ」
肯定する代わりに、白狐は銀狐の頭に顔を寄せ、瞼を下ろす。
するとどうだろう。
見る見る身を光に包ませ、己の妖力を相手に分け与えていた。毛先まで眩く光をともす白狐は満ち溢れんばかりの妖力を銀狐に注いでいる。 比良利が挙手すると静かに顔を放す。月光に照らされている銀の妖狐の毛並みは見事に美しい。あれほど焦げて潤いがなくなっていた毛先も、元通りの瑞々しさだ。
未だに眠る銀狐の身を案じて白狐が小さく鳴くと、銀狐の微かに耳が動いた。いつまでも目覚めを待つ白い狐に、「もう大丈夫じゃ」時期に目が覚めると比良利が綻ぶ。
それを聞いてようやく安心したのだろう。白狐は比良利を信じ、溢れた妖力を鎮め、妖型を解いた。 元の獣型になる白い狐に目尻を下げた比良利は銀狐を抱くと、すくりと立ち上がり、放置していた傘を拾う。
「さてと、そこのぼん達は妖祓のようじゃが」
すっかり蚊帳の外に放られていた朔夜と飛鳥は強張った面持ちを作る。
彼から醸し出される桁違いの妖力に畏怖の念を感じつつも、気丈に法具を握り締めて相手の視線を受け止める。 嘗め回すように人間を観察してくる比良利は糸目を更に細め、「妖を祓う者」すなわちそれは我等の敵だと呟く。
しかし、意味深長に口角を持ち上げると片手で和傘を開いた。 蛇の目模様をこちらに見せ、軽く柄を回す。 連動して傘の模様も時計回りに回転する。
「妖祓は妖の敵。妖と人は相容れぬことのできない存在。じゃから人間は朝昼を支配し、妖は夕夜を支配する。まるで月と太陽のようじゃな――若すぎる妖祓。同胞に手を出した今回の件は目を瞑ろう」
すべて見抜かれている。
自分達が白狐を捕獲しようとした行為も、銀狐を傷付けてしまった行為も。
あ、朔夜は脳裏に祓魔師達が言っていた“赤い狐の悪魔”を思い出す。
“赤い狐の悪魔”、彼がその悪魔なのだ。巽は言っていた。赤い狐の悪魔は妖を統べる頭領であり、導く者だと。
「主等も悪気があったことではなく、警戒心があってこその行為じゃった。身内が無闇に人を襲っていることは事実明白。それについては謝罪しなければならない。この地、妖の北頭領としてお詫び申し仕る」
体を反転させ深々と頭を下げる比良利は踵返すと、白狐に声を掛けて公園の出入り口を目指す。
クン、小さく鳴く白い狐は固まって動けない自分達に視線を流してくる。ジッと凝視してくる白狐を見つめ返していたが、妖は悲しそうに目を細め、足を引きずりながら出入り口で松比良利の下に颯爽と走った。
三尾を夜風に靡かせ、その雪のように白い毛並みを月光に映えさせる姿はやはり神々しい。それを上回る、赤き狐の悪魔の妖気が禍々しい。
後を追って術を出すことも、追跡することも朔夜達にはできなかった。どうしようもなく赤狐の持つ妖力に圧され、足の裏が地面に縫い付けられてしまったのだから。去り行く妖達を見送り、どれほど経ったか。無人のブランコが錆びた音を出すことにより、相棒が思い出したかのようにしゃがみ込む。
「あ、あ、あ……あれが妖なの? 怖いとか凄いとか、そんなレベルじゃない。目の前が真っ白になったよ。朔夜くん、あれは一体」
答えられず、朔夜は持っていた法具を一瞥し、重々しい吐息をついた。未だ混乱している頭は現実を受け入れられそうにない。
公園を出た比良利は銀狐を抱え、足軽に道を進んでいた。
心なしか表情が緩んでしまうのは、この目で“南の神主”の力を見たからだろう。宝珠の御魂は既に次の妖に可能性を見出している。それを比良利も、この目でしかと見た。だからこそ心が鞠のように弾むのだ。
歩む足を止め、長髪の紅を靡かせながら振り返る。
背後を歩いていた白い狐を見下ろすと、困惑したように同胞が此方を見つめてくる。
「どうやら今日が主にとって“祝の夜”だったようじゃのう。依然ヒトである主じゃが、満月の夜は完全な妖と化す日。ゆえに不本意ながらも妖となってしまい、ヒトの世界にいる妖祓に目を付けられた。そうじゃのう?」
スンと鼻を啜る白い狐の頭に置き、「さあ帰ろうぞ」主は妖、我等の同胞。ヒトの世界は今の主には合わぬ。優しく白狐を撫でる。
おずおずと見つめ続ける白狐に対し、比良利は子供のように破顔した。
「妖の世界に帰ろうぞ。少しずつで良い。我等を受け入れてくれたら、それで良い――のう、三尾の妖狐、白狐の南条翔」