第四章 まだ名前のない音
夜の街に、雨の匂いが漂っていた。
小さなスタジオを借りた。
俺はその小さなスタジオの入り口で立ち止まり、ガラス越しに中を覗いた。
中には、古びたアップライトピアノとマイク、そして壁際に積まれたアンプ。
その前で、遥が譜面を広げていた。
「早かったね。」
「寝れなかったから。」
俺はギターケースを下ろしながら答える。
昨日のセッションが、頭の中で何度も再生されていた。
音が脳裏に残り、静かにしていても胸がざわついた。
「昨日の広場の曲、まだ覚えてる?」
「忘れるわけないだろ。」
「じゃあ、あれを形にしてみよう。」
遥はピアノの前に座り、指を鍵盤に置いた。
音が流れた瞬間、空気が変わった。
柔らかく、そして少し儚い旋律。
俺は弦を弾き、彼の音に寄り添う。
まるで互いの呼吸が、音になって混ざっていくようだった。
「そこ、もう少しゆっくりでいい?」
「こうか?」
「うん、それ。」
俺たちは何度も止まり、何度もやり直した。
だけど、不思議と苛立ちはなかった。
失敗するたびに、新しい音が見えた。
彼の指先の動きに合わせて、俺の手も自然と動いていた。
その瞬間だけ、世界は“音”だけで満たされていた。
「ねぇ。」
遥が小さく声を出した。
「この曲、どんなイメージで弾いてる?」
「……うーん。
冷たい朝。
でも、遠くに陽の光が見えてる感じ。」
「なるほど。」
彼は微笑んで、鍵盤をもう一度叩いた。
今度は少しだけ明るい音が混ざった。
俺の胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「不思議だね。」
「何が?」
「言葉にしなくても、伝わるってこと。」
「……音ってそういうもんだろ。」
俺がそう言うと、遥は小さく頷いた。
「でも、君の音は特別だよ。」
「特別?」
「うん。数式みたいに正確で、
でも人の心の中にまでちゃんと入ってくる。」
俺は何も言えなかった。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。
気づけば、曲はほとんど完成していた。
旋律に言葉はなかったが、確かに“想い”があった。
それがどんな感情なのか、俺自身もまだ分からない。
ただ――
この音に、何か名前をつける日がいつか来る気がした。




