キッス・オブ・ジューダス
もう、並大抵のことでは驚かない心算でいた。が、さすがにこれはビビった……。
知らずに眠っていたらしい。しかも屋外でだ。ここは、どこだろう。寝ぼけ眼で辺りを見回すと、樹木の生い茂っているのがわかる。
月が煌々と照っていた。夜なのは間違いないらしい。でも、なんでオレこんなところに?
……うっわ、ビックリした! ペテロのおっさんがいる。ヤコブ兄さんもだ。ふたりして樹の根もとで眠っている。気持ち悪っ。
いったいこれは、どんなシチュエーションなんだ。ぜんぜん記憶がつながってくれない。
「あなたがたは、少しの間も起きていられないのですか」
体育座りするオレの眼前に、誰かの脚が見えた。男性の声だった。
「……はっ、これは失礼しました」
突然ペテロのおっさんが起き出して、素っ頓狂な声をあげた。その声でヤコブ兄さんも目を覚ましたらしい。ふたりとも眠たそうに目をこすっている。
「眠らずに起きているのです。そうして祈りなさい」
そう言って男性は木立ちの奥へと去って行った。
男性が去ると、おっさんと兄さんのふたりは言いつけも守らずにまた寝はじめた。
オレは……震えが止まらなかった。冗談だろ? これって、ゲツセマネのエピソードそのものじゃないか。
するともしかして、いや間違いなく、さっきの男性はイエス・キリストだ。時間が遡ったのか。もう、こうなると何でもアリだな……。
いやちょっと待て、このままいくと今夜中にイエスはユダヤ人たちに逮捕されることになるぞ。そう思い至ったまさにそのとき、茂みのむこうで悲鳴が聞こえた。
「むにゃ」
ペテロのおっさんがまた少し起きかけた。
「むにゃ、じゃなくて、ふたりとも起きてください!」
もうちょっとで大声を出すところだった。なんだかヤバい空気を察知したオレは声を絞りつつ、ふたりの肩を強く揺すって叩き起こした。
「……はっ、どうしたヨハネ。主は?」
「いま誰かの叫び声が聞こえました。様子を見に行きましょう、ただし、こっそりと」
オレの口調にふたりは、ただならぬ事態と感じたらしい。いっぺんに目を覚まして立ち上がった。
まるでドラマのワンシーンのようだった。
木立ちの奥では、松明を持った屈強そうな男たちがイエスを取り囲んでいた。武器を持っている者も散見できる。
その炎が照らすなか、イエスともうひとりの男が対峙していた。オレの知らない人物だった……いや待てよ。
男はイエスに近づくとその頬にキスをした。うわー、本当にやったよ。ユダのキスだ。
「ユダ……あいつが裏切り者だったのか」
隣でおっさんが呟いた。
イエスとユダは何か言葉を交わしたようだったが、オレらが潜んでいる茂みからは聞き取れなかった。
武装した連中が出てきてイエスをひっ捕らえた。連行される前に、彼は一瞬だけオレらのほうを見た。そうして、うん、と一度頷いた。
オレらはただ、イエスが小突かれたり蹴られたりしながら連行されるのを見届けるしかなかった。
「エルサレムだ。先回りしよう」
ヤコブ兄さんがおっさんを促した。彼はオレを見て言った。
「ヨハネ、おまえは宿に戻ってマリア様にこのことを伝えるのだ。そして、あとからエルサレムに来なさい」
「えっ……あ」
そんなこと言ったって、宿の場所とか知らないし! この、たぶんゲツセマネの園であろう場所も、来たことがないから帰り道すらわからない。
有無を言わさず彼らは行ってしまった。あーあ、もう知らないよオレ……。




