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買収  作者: 北 尤
9/11

第九章 無礼講の終焉

 午後六時。千代田区、本社ビル最上階の特別会議室。


 窓の外、雨が降っていた。夜景の光が、雨滴によってそれぞれ輪郭を失い、にじんだ球体に変わっていた。窓ガラスの表面を、雨粒が不規則な軌跡を描きながら流れ落ちていた。


 円卓を囲む椅子に、数名が座っていた。塚田社長、山口企画本部長、保険計理人、そして田中を含む経営企画の数名だった。テーブルの上には、書類の束と、数個の湯呑みが並んでいた。湯呑みの中身は、すでに冷えていた。湯気は出ていなかった。灰皿に、使用済みの煙草が一本、斜めに立てかけられていた。


 室内の空気は重かった。換気口が、低い音を立て続けていた。


 塚田がネクタイに手をかけた。結び目を、指先で二センチほど緩めた。


「今日は無礼講だ。立場は関係ない。経営企画の若手諸君も、この会社をどこに委ねるべきか、忌憚のない意見を言ってほしい」


 塚田は手元の湯呑みを持ち上げた。一口含んだ。それから湯呑みをテーブルに戻した。陶器が木の表面に触れる、小さな音がした。


「田中君、君はどう思う」


 塚田の視線が田中に向いた。


 田中が口を開く前に、藤田次長が身を乗り出した。スーツの袖がテーブルの端に触れた。


「社長、倉田の件ですが……二ちゃんねるでさんざん叩かれています。正体不明の資金源だとか、詐欺師だとか。あんなところと組むのは、ネットの評判を考えても危険すぎます」


 藤田はスマートフォンをテーブルの上に置いた。画面を円卓の中央に向けた。画面には、文字の列が並んでいた。白い背景に、黒い文字が密集していた。


 田中は藤田の手元の画面を一度見た。それから塚田の方へ視線を戻した。


「二ちゃんねるの情報は、観測データとしては信頼性に欠けます」


 田中の声は低く、一定だった。


「昨夜、同サイトには『共英生命が破綻を逃れた』という偽情報が流れたばかりです。物理的事実と逆行する言説を、意思決定の指標にすべきではありません」


 藤田はスマートフォンを手元に引き寄せた。画面が下を向いた。藤田は何も言わなかった。


 田中はテーブルの上の書類に視線を移した。各社の査定報告書が、三冊並んでいた。田中は指先で、それぞれの表紙を交互に示した。


「私が倉田氏、そして大東火災の提案を退ける理由は、ネットの評判ではありません。彼らのデューデリジェンスにあります」


 田中は報告書の一冊を手に取った。ページをめくった。数字の列が並んでいた。余白に、赤いインクで書き込みが入っていた。


「大東火災も倉田氏も、資産査定が極めておざなりです。彼らは一様に、共英の自己申告データを信じると言っている。だが、数千億の責任準備金を引き受ける際、売り手の言いなりで買う人間は、ビジネスの世界には存在しません。そこには、論理とは別の何かが介在している。不自然です」


 円卓を囲む数名の視線が、田中の手元の報告書に集まった。山口本部長が、手帳の革表紙を指先でこすった。微かな音がした。


 田中はセキュアードの報告書を手前に引き寄せた。表紙を開いた。最初のページに、細かい数字の列が並んでいた。余白に、赤いインクで書き込みが入っていた。書き込みの行間が、他のページより密だった。


「対して、セキュアードは執拗なまでに数字を突き、資産の底を暴こうとしています。買う側の行動として、これが唯一の正常な反応です。だからこそ、私はセキュアードを推します」


 田中は報告書を閉じた。テーブルの上に戻した。


 室内から音が消えた。


 換気口の低い音だけが続いた。


 山口本部長の指が、手帳の革表紙の上で止まった。


 塚田は両手を組み、その上に顎を乗せていた。視線は田中に向いたままだった。動かなかった。


 数秒が経過した。


 窓の外で、雨脚が強くなった。雨粒がガラスを叩く音が、室内に届いた。夜景の光の輪が、さらににじんだ。


 塚田はゆっくりと視線を落とした。


 テーブルの上に、倉田のパンフレットが広げられていた。金文字の表紙に、窓から差し込む雨の反射光が、細い線となって走っていた。その線が、雨粒の動きに合わせて、わずかに揺れた。


 塚田は何も言わなかった。手元の空になった湯呑みを、音を立てずに元の位置に戻した。陶器がテーブルに触れる音は、しなかった。

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