第十章 論理の帰結
午前二時。千代田区、本社ビル最上階。
廊下には人影が三つあった。山口本部長と山本部長が、社長執務室のドアの両脇に立っていた。田中は廊下の壁に背を預けていた。三人とも、口を開かなかった。廊下の間接照明が、化粧パネルの天井を均一に照らしていた。窓の外は暗かった。雨は止んでいた。濡れたアスファルトが、ビルの下で光を反射していた。
執務室のドアが開いた。
塚田が廊下に出てきた。ワイシャツの襟元が大きく開かれていた。ネクタイは外されていた。右手に万年筆を握っていた。キャップは外れていた。
山口と山本が、ほぼ同時に立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、廊下に響いた。
塚田は廊下を歩いた。革靴の音が、カーペットに吸い込まれた。音はほとんどしなかった。彼は立ち止まらなかった。円卓の前まで歩き、立った。
円卓の上には、三組の書類が並んでいた。
倉田のパンフレット。金文字の表紙が、蛍光灯の光を受けていた。大東火災の青いバインダー。セキュアードの報告書。白い表紙に、黒い文字だけが印刷されていた。背表紙の厚みが、他の二冊とは明らかに異なっていた。
塚田は倉田のパンフレットに指先を触れた。それを脇へ弾いた。パンフレットが円卓の端まで滑り、止まった。続いて大東火災の青いバインダーを手に取り、パンフレットの上に重ねた。バインダーがパンフレットの金文字を覆った。
円卓の上に、セキュアードの報告書だけが残った。
塚田はその報告書を手に取った。表紙を開いた。最初のページに、数字の列が並んでいた。余白に、赤いインクの書き込みが入っていた。塚田はそのページを数秒見た。それから表紙を閉じた。報告書を円卓に戻した。
「これに決めた」
塚田の声は低く、湿り気を帯びていた。廊下の間接照明の下で、その声は壁に吸い込まれた。
塚田は万年筆を持ち直した。報告書の最終ページを開いた。署名欄があった。塚田はペン先を紙に当て、一気に走らせた。硬いペン先が紙の表面を削る音が、静まり返った室内に小さく響いた。インクが紙に乗り、黒い筆跡が残った。
塚田はペンを置いた。
山口本部長の口が、わずかに開いた。顎が動きかけた。頬の筋肉が、一度だけ収縮した。それから山口は口を閉じた。
塚田は署名欄の黒いインクを見たまま、動かなかった。右手の万年筆を、報告書の表紙の上に置いた。万年筆が表紙に触れる音が、小さく鳴った。それから塚田は田中の方へ、一度だけ視線を向けた。何も言わなかった。視線を報告書に戻した。
「外資に売るという批判は、私が受ける。だが、この会社の契約者に嘘をつかない唯一の道は、この数字と向き合うことしかない」
塚田は椅子を引いた。深く腰掛けた。両手を顔の前に持ち上げ、顔を覆った。指の間から、長い息が漏れた。その息が、室内の空気と混ざり、消えた。
廊下で電話が鳴った。一度。二度。三度目で誰かが取った。低い声が、廊下の奥で短く何かを言った。それから静かになった。
また別の電話が鳴り始めた。
田中は窓の方へ顔を向けた。窓ガラスの向こう、東の空の端が、暗闇の中でわずかに色を変え始めていた。黒から、濃い紺へ。輪郭はまだなかった。
円卓の上では、セキュアードの報告書が、署名の入ったページを開いたまま置かれていた。その隣に、塚田が置いた万年筆があった。キャップが外れたまま、インクが乾いていく音は聞こえなかった。
廊下を、広報の社員が走った。革靴の音が廊下の端から端まで響き、角を曲がり、消えた。
電話のベルが、また鳴り始めた。今度は複数だった。フロアのどこかで、コピー機が起動する音がした。
田中は右手を上着の内ポケットに入れた。手帳の表紙に触れた。革の感触があった。指先でその表面を一度だけなぞり、手を戻した。
東の空の端が、また少しだけ明るくなっていた。




