タイトル未定2026/02/28 12:20
最終章 離脱の儀法
本社ビル。総合企画部のフロア。
山本は部長席に座っていた。デスクの上に予定表が広げられていた。山本はそこから目を離さなかった。
「辞めるのなら、すべての役員の部屋を回って挨拶をしておけ。それがこの会社の筋だ」
田中はデスクの前に立っていた。デスクの端に、スタンプ台が置かれていた。インクが切れていた。表面が乾いて、黒ずんでいた。
「課長職一人が役員全員の時間を奪うのは、合理性に欠けます。僭越でしょう」
「いいから行け」
山本は手元の書類に目を落とした。ペンを持ち直した。ペン先が書類の上を走った。
田中は一礼し、フロアを出た。廊下の角で、自動販売機のボタンを押している社員がいた。釣り銭口に手を差し込み、何も出てこないことを確かめ、もう一度押した。田中はそばを通り過ぎた。
役員フロア。
エレベーターの扉が開いた。金属の扉が左右に退いた。その先に廊下があった。
足を踏み出した。
廊下の絨毯は、総合企画部のフロアより毛足が深かった。革靴の底が、踏み込むたびに沈み込んだ。底が絨毯の繊維に包まれ、足音が消えた。廊下の両側に、重いドアが並んでいた。ドアはいずれも閉まっていた。ドアとドアの間の壁に、薄い木の羽目板が張られていた。木目が縦に通っていた。間接照明が、天井の縁から光を放っていた。光は直接目に入らず、天井の白い面に当たって拡散していた。廊下の床は、その拡散した光に均一に照らされていた。影の輪郭が、どこにも生じていなかった。
田中は廊下を歩いた。歩くたびに絨毯が沈み込み、戻った。右手側のドアに、小さなプレートが打たれていた。金属製のプレートに、黒い文字が刻まれていた。「人事部長」とあった。
田中はその前で止まった。
右手を上げた。第二関節を、ドアの表面に当てた。二回、ノックした。木の密度が、指の骨に返ってきた。
「どうぞ」
田中はドアノブを握った。回した。ラッチが引っ込んだ。扉が開いた。
室内に空気があった。窓の外から光が入っていた。皇居の方角だった。
人事部長が壁際のソファに座っていた。深く沈み込んだ革張りのソファで、人事部長の体が、座面に埋まるように収まっていた。膝の上に眼鏡が置かれていた。つるが開いていた。レンズが、天井の光を受けていた。その横のサイドテーブルに、茶菓子の皿が置かれていた。皿の縁に金の細線があった。菓子は四つ並んでいた。包装紙が一枚、剥かれて皿の端に寄せられていた。包装紙の折り目が、皿の縁に触れていた。
山口企画本部長が、サイドテーブルの前の椅子に座っていた。上体を前に倒し、茶菓子に手を伸ばしていた。指先が菓子に触れる直前、田中が入室した。山口は手を止めた。上体が戻った。茶菓子は皿の上に、四つのまま残った。
田中はドアを閉めた。ラッチが枠に収まった。田中は絨毯の上を歩いた。人事部長のソファの前まで歩いた。立った。手を前で重ねた。
「退職の件で、ご挨拶に参りました」
田中は上体を傾けた。頭が下がった。床の絨毯が、視界の中心に入った。絨毯の繊維の束が、光を受けてそれぞれ陰影を持っていた。
田中は上体を戻した。
室内が静かになった。山口が椅子の背もたれに体重を預けた。革が低い音を立てた。空調の低い音だけが続いた。吹き出し口の位置は、天井のどこかにあった。
人事部長は膝の上の眼鏡を見た。それをゆっくりと持ち上げた。両耳にかけた。つるが耳の上に乗った。人事部長は田中を見た。レンズが、田中の方向に向いた。レンズの向こうで、人事部長の目が収まっていた。
人事部長のデスクがあった。デスクの上に、田中の退職願が置かれていた。A4サイズの紙だった。折り目が二本あった。人事部長は退職願に指先を触れた。人差し指の腹が、紙の端に当たった。小さく一度叩いた。紙が一瞬たわみ、戻った。
「田中君、君の進退の件だが、山本部長から話を聞いている。……彼はこう言っていたよ。『田中が辞めるなら、自分も辞める』とね」
退職願の端を叩く指が、止まった。人差し指の腹が、紙の上に乗ったままになった。
「上司を道連れにしてまで、今、ここを去る必要があるのか。もう一度、考え直してくれないか」
田中は人事部長の顔を見たまま、何も言わなかった。口が開かなかった。両手が、前で重なったままだった。
室内の空気が動いた。
山口が立ち上がった。立ち上がる途中で、椅子の脚が絨毯を後退した。絨毯の繊維が、椅子の脚に押されてわずかに白んだ。山口はデスクの前まで歩いた。歩幅が、絨毯の上に残らなかった。退職願に手を伸ばした。人差し指と親指が退職願の端を挟んだ。人事部長の指先から、退職願を引き取った。人事部長の指先と山口本部長の指先の間で、紙が一瞬張った。それから、紙が人事部長の指先を離れた。微かな音がした。
山口本部長は田中の方へ向き直った。田中の胸ポケットに手を向けた。退職願の端を、胸ポケットの布地に当てた。それをポケットの中へ差し込んだ。紙がスーツの生地に触れた。折り目が、胸ポケットの縁で少し折れた。退職願の上端がポケットから出た状態で、山口本部長の手が離れた。
「引き止めるのはよそうじゃないか。彼の門出だ」
山口本部長は田中の背後に回った。靴音が田中の背後で鳴り、止まった。山口本部長の右手が上がった。掌が、田中の右肩に一度だけ当たった。掌の重さが、上着の生地越しに田中の肩の骨に伝わった。上着の生地が、掌の形に一瞬だけ沈んだ。それから、山口本部長の手が田中の背中の中央に当たった。力が加わった。出口の方向へ、静かに押した。
田中は足を踏み出した。
右足が出た。革靴の底が絨毯に沈み込んだ。左足が出た。体の重心が前に移った。開いたドアへ向かった。ドアの枠が近づいた。廊下の間接照明の光が、ドアの向こうに見えた。ドアの枠を通り過ぎた。
廊下に出た。
背後でドアが閉まった。金属のラッチが枠に収まる音が、廊下に響いた。音が廊下の壁に当たり、消えた。
田中は廊下を歩いた。革靴の底が絨毯に沈み込み、上がった。沈み込み、上がった。役員フロアの壁に、額縁が並んでいた。縦長の額縁だった。その中に、歴代社長の肖像画があった。描かれた人物は、いずれもスーツを着ていた。ネクタイの色が、絵ごとに異なっていた。間接照明の光が、額縁のガラスに細く反射していた。田中が歩くたびに、反射の位置がわずかにずれた。肖像画の中の顔は、照明の角度によって、それぞれ影が異なっていた。頬骨の下に影が入っているものがあった。目の下に影のないものがあった。田中は足を止めなかった。革靴の底が絨毯に沈み込み、上がり続けた。
エレベーターホールに着いた。
ホールの壁は、廊下と同じ羽目板だった。正面に、エレベーターが二基並んでいた。扉は閉まっていた。扉の表面は、金属製の化粧パネルだった。その表面に、廊下の照明が歪んで映り込んでいた。照明の形が、縦に伸びて映っていた。自分の輪郭も、その中に映っていた。
田中は下りのボタンを押した。ボタンは壁に埋め込まれていた。表面が、一瞬だけ光った。オレンジ色の光だった。
田中は正面のエレベーターの扉を見た。化粧パネルの表面に、田中の像があった。輪郭が歪み、縦に引き延ばされていた。胸ポケットから出た退職願の白い端が、その像の中にもあった。
表示灯の数字が動き始めた。最上階を示す数字から、一つ減った。また一つ減った。数字が減るたびに、表示灯が切り替わる音が、小さく鳴った。金属の薄い音だった。
数字が「1」になった。
扉が開いた。左右に退いた。エレベーターの内部が現れた。床がホールの床と同じ高さに揃っていた。
田中はエレベーターに乗った。床が、靴底に固い感触を返した。絨毯がなかった。振り返った。
廊下の間接照明が、エレベーターホールの化粧パネルの天井を照らしていた。歴代社長の肖像画が、廊下の壁に並んでいた。距離が開いた分、肖像画の顔の細部が見えなくなっていた。額縁のガラスが、それぞれ光を反射していた。
扉が閉まった。左右から中央へ向けて退いていた扉が、中央で合わさった。金属が金属に当たった。ラッチが枠に入った。廊下が消えた。
エレベーターが動き始めた。床から、機械の振動が靴底を通じて伝わってきた。細かい振動だった。壁の化粧パネルが、その振動をわずかに返した。表示灯の数字が、また一つずつ減っていった。「B1」に向かって、数字が下降していった。
田中が外に出ると、作業員が真鍮の看板を外していた。
真鍮の表面に、一瞬だけ何かが映った。それから消えた。
完




