第十九話 檻の中の白熊
ギュルルンと甲高い機械音が鳴り響く。
その音は、テンポよく五回聴こえそして静かになった。エアインパクトレンチでタイヤでも交換しているのだろう。ガレージの中を覗くと案の定、右後輪がジャッキで持ち上げられタイヤが外されていた。だいちゃんがおいしょと小さく呟きタイヤを持ち上げ振り向いた。僕に気がつくと一瞬目を大きくし、そして笑った。
「びっくりした。どうしたんだよ」
「新しいタイヤ買ったの?」
「いや、先輩からのもらいもん。丁度使ってないの余ってるっていうからさ」
視線を外されたタイヤに向けると、ゴムが破れワイヤーが見えていた。
「え。だいちゃんドリフトしてんの?」
「うん。まあね」そう言って、悪戯っぽい笑みを顔に浮かべている。
「ずっと夢だったんだ。ドリフトするのがさ。欲しい車買って、ドリフトして、車もどんどんイジッてさ。小さい頃からの俺の夢」
だいちゃんは、一つ一つ夢を叶えている。欲しい車、ドリフト。そしてきっとこれからも夢を形にし叶えていくのだろう。欲しいものを手に入れる。夢を叶える。とは、一体どんな気持ちがするのだろう。夢を叶えるには、どうしたらいいのだろう。
「強く想うんだよ」
新しいタイヤをハブに咬ませナットを両方の手で二カ所同時に回しながら、言葉を続けた。
「人はさ、なりたい自分になれるんだよ。てか、なるんだよ」
そう言うだいちゃんは、自信と確信に満ちているようだった。僕は、思いのほか響いたその言葉を必死に自分に当てはめようとしていた。とても大切なことを、今の自分に必要なことを言っている気がする。そして、一歩踏み出す勇気を与えてくれる。そんな言葉のような気がしたのだ。
「で、何悩んでんだ?」
だいちゃんの声は優しい。
「だいちゃんさ、そんな優しい声出して自分に酔ってるでしょ」
だいちゃんの優しい声が、癪に障ったのは優しい以外に甘さが含まれていたからかもしれない。だいちゃんは、なんだよそれと、笑った。
「恋の悩みなんだろ」
不意に放たれた言葉が、ガレージに響いた。不意に図星だった時、人は否定してしまいがちではないだろうか。「ちげーよ」ついそう否定してしまった。流石にこの言葉使いは、怒られるかもしれないと覚悟した。しかし、その覚悟とは裏腹にだいちゃんは全く予想もしなかったことを口にした。
「お前そのフレーズはさ、自分の声で言っちゃダメじゃん?」
まるで言っている意味が、分からない。処理しきれず固まっていると、同じ事をもう一度言われた。えーとかうーとか、あからさまに困っていると、それに見兼ねただいちゃんが、だからと、前置きをして、意味を教えてくれた。
「そのフレーズを言う時はさ、声変えないとじゃん。そのこと踏まえてもう一回言ってみろよ」
おや。話の展開の雲行きが怪しい。腑に落ちないまま妙な迫力に負け言われるがままに従った。
「ち、ちげーよ」気持ち声を高くした。
「だから、ちげーよ」やや食い気味に突っ込まれた。そのだいちゃんのちげーよは、目を見開き声をこもらせていた。そして理解した。アフリカ出身のタレントの真似だ。懐かしくなっているその人物を、思い出した自分を褒めたい。
「ほら、言ってみろよ」
「え、いやです」
「何を言っている。ここに来たのは何のためだよ。このちげーよを習得するためだろ?」
「ちげーよ」不意のボケに自然に反応する。「それだよ」と、だいちゃんは満足気な表情を浮かべている。当の本人は、何の手応えも無く、意味も分からないまま立ちつくした。
ギュルルンと甲高い機械音が、また響きだす。やがて鳴り止むと、だいちゃんはこちらに顔をだけを向けた。
「強く想い、努力し、諦めない。このことを決意する。これがでかい何かを手に入れる方法のひとつだと思っている。どうやら本気の恋を、またしているんだな」
はっと、だいちゃんを見た。全てを悟っているような眼差しだ。だいちゃんは視線をタイヤに戻してふっと笑った。
「遊び人みたいなことして説得力の無い表情を浮かべるようになった時には、どうなっちまうのか心配していたけどな」ハハハっと小さくだいちゃんは笑った。
「今のお前はしっかり人のことを想い、好きなんだっていう根っこを持つ表情をしているよ。素敵な人なんだな。素敵な恋をしているんだな。なんか安心したよ」
だいちゃんが一人でしゃべり続けてくれるのは、僕が既に声には出さず大泣きしていたからだ。
本当に素敵な人なんです。会えば会うほど、話せば話すほど感情が積もっていくのです。けど、些細な噂話に翻弄されるのです。信じることができないのです。もういっそ嫌いになりたいです。何も想っていない時に戻りたいのです。苦しいです。辛いです。
でも、でも、でも、それでも・・・。
「でもな、お前が想うその素敵な女性は俺のこと好きっぽい」
「ちげーよ」泣き声の中、会得した声音に出来るだけ近づけた。不意のボケに反応できたらそれで大丈夫だ。それが逃げださない明日への一歩になる。ギュルルンと、甲高い機械音とだいちゃんの笑い声が響く。その音を背に僕は、歩きだした。
努めて普通を装う。牧田先生と二人になると平静を装うのが困難になっている。装っている分、気まずい空間が出来上がっている。その気まずさが伝染してしまったのか何処か牧田先生もよそよそしい。その空間に音が埋まっていく。まだ全てを弾けるわけではないが、なんとなく曲と呼べるくらいには上達したと自負している。弾けてくるとその楽しさと勝手に感じているであろう気まずさを埋める心理が相まって、無我夢中で鍵盤を叩き続けた。合コンで馴染めず食に徹する行動と似ているかもしれない。どれくらい鍵盤を叩いていたかは分からない。繰り返し繰り返し弾いた。ふふっと笑う声が、すっと耳に入ってきて、はっと我に返った。その笑い声は、牧田先生だった。鍵盤を叩く手を止めて、牧田先生を見るとふふふふっと、また笑った。
「何か、変でしたか?」その笑みの意味が未知の分、恐る恐る尋ねた。
「ごめん。何かに取り憑かれているように弾くから。その姿がまるで一流の音楽家みたいだったから」
「え、本当ですか?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけって」
二人の笑い声が、そこで重なる。
「幸せね」
「え?」
唐突にそんなことを言う。何に向けられた言葉か分からずに、牧田先生を見た。牧田先生は薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「ハル君に想われている女性が」
その一言は、最初に舞い降りた雪のように、そっとしていた。そして、その冷やりとした感覚はヒリヒリと心に跡を残す。
「いや、そんなことないですよ」
違うんだ。牧田先生。心にしっかりある想いを抱きながら、その思いを否定も肯定もせず鍵盤をまた叩き始めた。僕がいつか牧田先生のあの静かな涙をピアノで表現出来るようになったら、そこまで上手になったら、今、想っている心の本音を奏でることが出来るだろう。先延ばしではない。ただ、ロマンチストなだけだ。ロマンチストなのは元来の性分だったが、最近は考えることが音楽家のそれで困ったものだ。音楽家になっていく自分の可能性が、怖い。決して、先延ばしではない。イメージは出来ている。牧田先生の涙をピアノで表現する自分。そんなに音は使わない。シンプル故に聴く者たちが、驚嘆と感嘆する。差し詰め響くのは、音楽に長けている人達。牧田先生は、気付くだろう。それが、自分の流した涙だと。そしてその裏にある僕の感情にも気づくだろう。
その涙を見守っていたいこと、その涙を拭いたいこと。群衆の前で密かに伝わり合う二人。それはなんて素敵な光景だろうか。なんてロマンチックなのだろうか。
「顔、にやにやしているよ。どうしたの?」
しまった。表情にでてしまっていた。牧田先生に恐る恐る視線を巡らせば、怪訝な表情を浮かべていた。この秘めたる想いをいつか必ず実現しないと、このままじゃ牧田先生に妄想にやにや変態ピアニストとして認識されてしまうかもしれない。それだけは避けなければいけない。しかし、妄想にやにや変態ピアニストだなんて。笑える。ふっと少し吹き出したと同時に、ガタっと椅子を鳴らし牧田先生が立ちあがった。見上げれば悲しそうな怒っているような表情をしていたから戸惑った。
「ごめんなさい。ちょっとあたし余裕ないみたい。ごめんなさい」
そんな意味深い言葉を残し二階に上がっていってしまった。突然の出来事に暫くの間、階段を見つめていることしかできなかった。まず状況を整理しよう。僕は牧田先生に、なにかしら無神経なことをしてしまったか、集中していないように感じられたか、とにかくまた怒らせてしまった。そして、二階にあがってしまった。二階に。二階・・・。
いや、帰らないんかい。
一体どれくらい時間が経っただろうか。そして、どれくらい優子の部屋の前を行ったり来たりしてるだろう。牧田先生に思わず一人突っ込み、追ってきたものの優子の部屋にいる牧田先生にどう声をかけていいか分からず、行ったり来たりすることになってしまった。それはまるで、動物園の檻に入れられ同じところをグルグルまわって子供たちに飽きられてしまう白熊のようだった。もし、白熊も何かに気まずくそして勇気がでずに、同じところをグルグルまわっているのだとしたら。それなのにつまらないと、容赦のない罵詈雑言が浴びせられる。それは、あまりにも酷なことだ。自分も省みればつまらないと、浴びせる側だった。白熊の気持ちが分かる今、僕は心を改めよう。白熊よ。例え人々がつまらないとその場を離れていっても、自分は残ると約束しよう。僕は間違っていた。これからは白熊、君の味方だ。
新たな決意と一方的な友情が芽生えたその時、ガチャっと部屋のドアが開いた。
「なにしてるの?」不審者を見るような訝しげに優子が訊いた。
不意の出来事に遭遇し、自分が本当は準備が出来ていなかったことを知る。あんなに長い時間行ったり来たりしたというのに。返答に窮している間、部屋の中が少し視界に入ってきた。その少しの間から牧田先生の視線と合う。トクンと心臓が脈を打った。こういった時、反射的にどちらかが視線を外すものだと思うが、少なくとも牧田先生は視線を外さない。と、なれば外すのは自分しかいない。しかし、出来なかった。視界を外すことを許さない何かが、彼女の視線には宿っていた。
初めから斬られることが決まっていたかのような剣さばきをする道場の師範の凄味を思わせた。パクリと捕食された小魚のように、牧田先生の視線に僕の視線は飲みこまれてしまったのだ。
僕の視線は鰯で、牧田先生の視線はマッコウクジラといったとこだろうか。視線を捉えられ見つめ合う格好になってしまった。それだけで今は、責められている気持ちがする。とてもじゃないが耐えられなかった。男と女が黙って見つめ合えばキスをするって話は嘘だったのか。
「僕、何かしてしまいましたか?」
気まずい沈黙を打破する為に、言葉を音にして発した。その一言が、沈黙の質量をを感じさせてくれる。優子も凍てつく空間で、じっと様子を窺っているのが傍目で分かった。
「いいえ。なにも」
真っすぐ見つめながら短い言葉が返ってきた。それをきっかけに魔法が解けたようにやっと視線の自由を得た。安心して脱力している自分に苦笑する。それも束の間、にわかに満面の笑みを浮かべた牧田先生。トクンとまた心臓が脈を打った。
「それではそろそろお暇しますね。次は明後日、優子ちゃんと約束あるから来るのでついでに、ピアノやりましょう。練習さぼらないように」
そう言って、トントンと階段を降りて帰っていった。優子もそれに続き、玄関先でまた明後日とか、そう言葉を交わしているのが聞こえる。母も丁度買い物から帰ってきたようで、一盛り上がりしている。その様子を、呆然と聞いていた。その胸中、ここ最近の牧田先生の山の天気のような行動、言動に戸惑いと混乱を感じていた。彼女の気持ちの程は、結局理解できなかった。分かったのは動物園でグルグル徘徊する白熊の気持ちと、海水ごと丸のみされた鰯の気持ちだ。そんな見当違いの理解を得た情けない男は、祈るようにその場に座り込んだ。
どうか、全ての物事が落ち着くところに落ち着きますように。
それから数日が経った頃、夕食を済ませ、銘々自分の部屋に引きこもる時分、僕は優子の部屋の前に来ていた。
その前で大きく息を吸い、大きく息を吐いた。顔を二回叩きドアをノックする寸前で止めて自分の部屋に一度引き返す。かれこれそれを三回繰り返している。どうしても優子の部屋の前に来ると、白熊化してしまう。そして、四回目の深呼吸のパートを済ませた頃、ドアが勢いよく開いた。少し仰け反りポカンと口を開いた兄の姿をどういう気持ちで見ているだろうか。先日の牧田先生の様子が気になり、何か知っているはずの優子に訊こうと妹の部屋の前に来た。しかし、案の定、どう切り出していいか案が浮かばず白熊化していたのだ。
「さっきからなに?」鋭利な語尾だ。
「気づいてたんだ」
「最初から気づいてたよ。なんか深呼吸の音とかパンパン音もするし、足音は遠のいていくし。何?なんかの儀式?」
そう言い放ち自分の机と向かっていく。
「何やってるの?はやく入ってよ」苛立った声が飛んできた。
急かされるまま部屋に入ったのはいいものの、依然どうやって切り出せばいいか思いつかぬままだ。
「牧田先生のことでしょう?」
机に向かったまま優子のその核心を突く問いに頭が真っ白になる。
「どうして・・・」
やっと絞りだした言葉は、尻つぼみに消えていった。
「ねえ、なんかさっきから追い詰められた犯人みたいなの辞めてよね」
そう言ってこちらに向けられた顔には、半ば呆れたよな笑みが浮かべられている。
「いや、自分でもそう思ってた。なんか最近さ」
ふっと、優子は吹き出して自然な笑顔を作った。幾らかはそれで話しやすい雰囲気になった。
「牧田先生のこと、どう思ってるの?」
「なんだよいきなり。どうって何もピアノの先生だよ」
「え、じゃあ、ピアノって誰の為に練習しているの?」
「誰って教えてもわからないでしょ。なんで、そんなこと訊くんだよ」
「ねえ、本当に誰のため?」
会話のマウントを逆にとられ、これでは本当に追い詰められた犯人だ。もう優子は知っている。ほぼ知っている。もう吐いてしまおうか。優子なら言ってもいいだろうか。楽になれるだろうか。
「牧田先生のこと・・・」
優子が少し遠慮するように口を動かす。気が遠のくのを感じた。言わないでくれ。
それ以上。
優子の口の動きが、ゆっくり見える。言わないでくれ。
「好きなんでしょ?」
口の動きは、ゆっくりだったのにその言葉はすんなりすぐ耳に入ってきた。
優子が産まれた時のことをよく覚えている。その時は家族が増えたという実感は無くただ、小さい天使を迎え大事に思っていた。それからの日々は、彼女の存在に比例して愛おしい時間の流れに変わった。気づいたら愛おしい天使は二足歩行を覚え、僕と同じような言葉を話すようになった。同じものを見て、同じものを食べた。同じことで笑い、泣いたりした。いつも僕の後ろを、ニカニカ笑ってテクテクついてきた。
ある日、友達の家に遊びに行こうと外に出ると、優子がニカニカついてきた。今日は一緒に遊べないと意地悪で走ったら、いとも簡単に見えなくなった。優子のこともすっかり忘れ友達とサッカーを存分に楽しんだ夕暮れの帰り道、道路の真ん中にうずくまる人影が見えた。
優子だった。
泣いているようだ。何か聞きとれない言葉を、嗚咽の合間に聞こえる。そして、少しづつ前に動いていることに気づいた。かたつむりのようなその優子の姿に愛おしさが爆発し、走って優子に駆け寄った。優子まで五十メートルよりちょっと長い距離、七秒か八秒くらいの時間、何度ごめんと叫んだろう。急に走り出した兄を見て、優子も走ったのだろう。そして転んでしまったのだろう。なんとか追いつこうとかたつむりになったのだろう。どれだけの長い時間。怖かっただろう。痛かっただろう。淋しかっただろう。ごめんなと、優子を抱きあげた。
お兄ちゃん。
ああ、さっきから嗚咽の合間に言っていた聞きとれない言葉は、これだったか。きつく優子を抱きしめた。夕日が彼女の涙も鼻水も赤くキラキラと、輝かせている。ぐちゃぐちゃの顔を、お構いなしにこちらに向けニカニカ笑った。あの笑顔を忘れない。全てを許してくれる笑顔だった。その時決めたんだ。今、思うと聊か大袈裟だったかもしれないが、ずっと一緒にいるって。その日を境に、その時決めたことを僕は守った。サッカーも、虫取りも、魚釣りも、自転車での冒険も、公園の砂場に落とし穴を掘るのも、かまくらを作るのも、何をするにも一緒にいた。そうしていくうちに月日は流れ、段々立場が変わっていった。
サッカーもしなくなった。虫は嫌いになっていた。魚釣りも自転車の冒険も公園で悪戯もしなくなった。雪が降れば、寒いとストーブの前で丸くなった。
振り向いたら優子はもういなかった。
いつの間にか、小さい天使なかたつむりは、一人の麗しい女性になっていた。そのことを僕は理解し、認めなければならない。そして、いま僕の心を何もかも見透かして名探偵のように揺さぶってくる。
「好きなんでしょ」そう発せられた言葉が、随分遠いところで響いているようだった。もっとからかうように冷やかすように言ってくれれば楽だったのに。優子の目、声音は真剣を語っていた。心を届けられたら、心を返さないといけない。
「そうかもしれない」
観念した犯人のように弱々しい声。
優子の眉毛が少し上がる。そして困ったように笑った。
「奥手だよね。ほんと。牧田先生も」
「え?」
「ううん。じゃあ、ピアノは牧田先生の為?」
「牧田先生の為っていうか、少なくとも聴かせたい想い人ってのはいない」
「ふーん。やっぱりね」
優子はそこで黙りこみ何かを考えだした。僕はついに解禁された心を抑えきれずに優子の横顔に想いの丈をなげかけていた。
僕の五感全てが牧田先生を意識しているということ、子供や旦那がいる噂の真相が分からず不安になること、そもそも年下の男には興味ないのではないかと思ってしまうこと、彼女について何も知らないこと等、不安に思っていることや悩みを思いつくだけ話した。
優子が最初の五感と言ったところで白けた目を向けてきたので、何かおかしなことを言ってしまったか考え、股関と聞き間違えているのではと仮説を立て、五感、五感と言い直した時以外、優子はこちらに顔を向けることも、僕が同じことを繰り返し言うこともなかった。訥々と僕が話し、それを優子は静かに聞いていた。恋に悩む兄の対処なんて何が正解か自分でも想像がつかない。優子には酷な状況を作ってしまっていると理解していても、溢れる気持ちは一度漏らしてしまうと止めることが出来なくなってしまう。家族でそして牧田先生に近い優子には一番話さないでおこうと思っていたのだが。
「牧田先生もね、同じようなことを言っていたよ」
一瞥をくれそして、さらりと「どういう意味で言ったか分からないけど」と、付け加えた。
「同じようなことって?」
期待をを押し殺し努めて平静を装った。
「私はハル君のこと、全然知らないって」
まずい。口角が勝手につり上がっていく。ニヤけていたらきっと優子は気持ち悪がりそして、調子に乗っているとみなされ部屋を追い出されるかもしれない。なんとしてでもニヤけていることを悟られてはいけない。
ぐふっ。しまった。ニヤけに意識をとられ不快な音をノーマークにしてしまった。はっと、優子を見た。
「気持ち悪い。もう出てって」
時すでに遅し。もっと聞きたかったことがあったのに。心残りを感じながらドアに向かった。
「お兄ちゃん」
随分久しぶりにそう呼ばれ、戸惑った。
「知らないとか、知っているとかって関係ないよ。好きだって気持ちが芽生えているならそれが全てだと思うよ。動かない理由を探すの辞めたほうがいいよ。きっと大丈夫だから。ハル君なら」
優子の生意気な言葉の中に自分を気遣ってくれていることが伝わってきた。こんな優しい妹を持つ僕は幸せ者だ。愛おしい天使はやっぱり愛おしい天使だった。今日はこれで充分だ。「おう」と、照れを隠すように鷹揚に返事をし部屋を出た。
「照れてる」
後ろからからかうように優子が言う。
「おい、なにも言うな。なんで分かるんだよ」
そういえば、だいちゃんも僕が何も言わなくても見透かしたように話すことが往々にあった。
「分かりやすいもん。ハル君は」
心が表情に出てしまっているらしい。分かりやすいって良いことなのか、悪いことなのかよく分からない。良いことではないような気がするけど、そこまで悪いこととも思えない。例えば、何も言わないのに表情で好意が伝わってしまい、お断りされるなんてことがあれば、分かりやすいことは自分にとって悪いことだろう。でも、好意を感じたからとて、何も言わない内に断ってくるような自惚れた人は、そうそういないだろう。まず、そういった人に僕は好意を持たないはずだ。
牧田先生は、僕の気持ちを見透かしていたのだろうか。ピアノは心の鏡と言っていたからもしかしてそこから僕の気持ちを読み取ってしまったのではないだろうか。そういえばあの時、牧田先生からも本当は誰の為にピアノ弾いているか訊かれた。こうなれば出来るだけ早く想いを伝えたほうがいい。優子に話してどこか吹っ切れた。
今日、牧田先生がピアノを教えに来てくれる。本当の用事は優子にだが、ついでに教えてくれると言ってくれていた。そこで、心の鏡というピアノを上手く利用して牧田先生をデートに誘うつもりだ。映画が好きだからまた映画が誘いやすいけど、けど、映画ってあまり話すことが出来ない。それだから最初のデートの定番になっているのだろう。僕はもっと牧田先生と話したいんだ。もっと話せるデートを考えないといけない。
僕が咄嗟に計画したデートプランはこうだ。咄嗟と言ったが実は前から考えていた。まず開始はお昼から。お洒落なカフェでランチをする。そこでは美味しい料理に舌鼓を打ちながら会話が出来るだろう。そしてそこから池のある大きい公園を散歩しよう。散歩しながら会話が出来るだろう。もし、その場の雰囲気で白鳥ボートに乗りたいとなれば、乗っても良いだろう。乗りながら会話が出来るだろう。そして夜も一緒に居れるなら、夜景の綺麗なレストランで食事を。食事と夜景を分けてもいいだろう。どちらにせよそこで僕は想いを伝えられたらと、そこまでの覚悟を持っている。いつもだったら緊張と不安で無意味な行動と溜息がセットだったが、今は不思議と心は凪いでいる。とても平安だ。インターホンが鳴った。牧田先生だろう。最初は優子に用があるから僕はここでピアノを弾いていよう。優子が玄関へ向かった。やはり牧田先生だ。
「お邪魔します。あ、ハル君後でね」
「了解です。ちゃんと練習してますからね」
「ふふ。偉い。じゃあ楽しみにしてる」
牧田先生も空気が軽くなっているように感じた。僕が吹っ切れたからそう見えているだろうか。ピアノを弾いて三十分が経った頃、牧田先生が降りてきた。
「どう?調子は」
「牧田先生、僕の今日のピアノを読んでください」
「はい?」
「ピアノは心の鏡なんですよ。今、僕がどんな想いを心に秘めているか読んでください」
「ふははっ。いきなりだな。なるほど。いいわよ」
「では、弾きます」
計画通りだ。僕は牧田先生を、デートに誘いたいという気持ちを強く想い鍵盤を叩いた。
優しく強く音を奏でる。ドビュッシー、月の光。どうか、力を貸してくれ。僕の今の力では、盛り上がるところまで弾けない。最初のゆっくりとしたロマンチックで優雅なパートまでだ。ここまでで力を貸してとは、虫が良い話しかもしれない。でもこれが、今できる僕の精一杯だ。時間にして六十秒もない。さあ、どうだ。牧田先生。
弾き終わり牧田先生を見る。
「どうですか?読めました?」
「うーん。読めました」
「では、どう思っていたでしょうか?」
「はっきり読めるわけじゃないんだけど、そうね。映画に行きたいって」
「ん?え、え?映画?そして、めちゃくちゃはっきり」
「映画に行きたい」
「映画・・・」
「行きたくない?」
「あ、いや。行きたくなくないです」
「ふはは。決まり。来週の土曜日空いてる?」
「来週・・・、あ、はい。大丈夫です」
「じゃあ、今日はこれで帰るわね。練習続けてね」
「あ、はい。ありがとうございました」
ピアノも教えてくれなかったし、計画とは違ったが・・・。
よし、結果オーライだ。