転落
「リーシャちゃーん! 良かったちょっと頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「もちろんですわ」
用事の内容も確認せずにリーシャはうなずいた。男性は喜び、書類の束をリーシャに手渡した。
「いやー助かるよ。これ、バルトさんに渡してほしいんだ。お友達と遊んでる最中にごめんね。今日中におねがいっ」
言い終わると男性はまた走り去っていった。除雪作業が忙しいのだろう。……お友達?まだリーシャと会って数刻も経過していない……いや、彼女が否定しないのであれば私は何もそれに倣おう。
書類をカバンの中にしまい終わり「それではいざ、お菓子屋さんへ!」と駈け出さんとするリーシャを、腕をつかんで引き留める。リーシャは首をかしげながら振り返った。
「? どうかなさいましたか?」
「先に書類を届けよう。おそらく仕事に関係のある書類だろう? なら早めに渡しておいた方がいい」
仕事は早いほど良いらしい。先生の仕事仲間に毎度のごとく期限間際に書類を提出する者がいるのだが、そいつから夜中に書類が送られてくるたび、先生は額に青筋を浮かべながら対応していた。仕事とは、間に合えば良いというわけでもないのだと、その姿から学んだ。
「たしかに、その方がよろしいですわね。では先にお兄さまのところへ向かいましょう」
リーシャは快く私の提案を受け入れた。
しばらくリーシャの後ろをついて歩いていた。その間リーシャは私にずっと話しかけていた。あそこの店の靴がいかに履き心地がいいかだの、最近できたばかりの公園にあるオブジェの顔が面白いだの、出会ったばかりの相手によくそこまで会話の内容が思いつくものだと感心さえ覚えながら彼女の話に相槌を打っていると、突然リーシャが足を止めた。話も止まった。危うく彼女の背に衝突しそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「イグニスちゃん! 兄さまですわ。ほら、あちらに」
リーシャが小声でが示す方向を見ると、木に登っているバルトがいた。彼の目線の先には震えるハリネズミがいる。木から少し離れた場所には彼を応援する子供たちの姿が見えた。
バルトはハリネズミに威嚇されながらもなんとか捕獲を成功させた。子供たちから歓声があがる。次の瞬間、バルトの重さに耐えきれず木の枝が折れ、彼はズシャリと土の上に落ちた。しかしハリネズミは彼がかばったおかげで無傷だった。
子供たちは口々にお礼を述べながら去っていった。その姿を見送るバルトの背後に、リーシャが音もなく近づく。
「お兄さま! ごきげんよう!」
背後から突然の大声、バルトは驚き飛びのいた。
「ハッ⁉ あ、あぁ、リーシャ、もう、脅かさないでくださいまし……なぜここに? もうお菓子は食べたのですか?」
「いえ、まだですわ。お兄さまに書類をお届けに参りましたの」
「そうでしたか。ありがとうございます。イグニス様も、付き合っていただいたようで」
「いや、私が書類を優先するよう提案したので。別に礼を言われることでは……バルトラーグ殿?」
思わず名を呼んだ。バルトはふらついており、足取りがおぼつかない。顔色も先刻よりも目に見えて悪くなっている。リーシャも兄の異変に気付いたようで眉をひそめた。
「兄さま? お顔色が……」
「…………は、リーシャ、何か、言いまし、」
バルトの体がぐらりと大きく揺れた。そのまま地面に倒れそうになったところを間一髪、受け止める。彼の額に手を当ててみる。とても熱い。
「兄さま⁉ どうなさいました⁉」
「バルトラーグ殿、どこか痛むのか? 私の声ははっきり聞こえているか?」
返事はない。否、返事を試みようとしているが、呼吸が整わずまともに発音ができていない様子であった。
「……病院へ連れて行こう。リーシャ、案内を頼む」
「は、はい!」
「バルトラーグ殿もそれでよろしいか」
バルトが小さくうなずいたのを確認し、彼を抱え上げ、リーシャを追って走り出した。




