第五話 避けがたい再会
第六章 風の記憶
第五話 避けがたい再会
冬の匂いが、風に漂う。
朝、瓦屋根の端に霜が白く残り、路地の水たまりには薄く氷が張る。
陽が昇っても空気は冷たく、町の人々は首に手拭いを撒き、吐く息に手をかざしている。
京の初冬は、江戸より早く身を凍えさせる。
地面には霜柱が立ち、井戸の水も骨に沁みるほど冷たい。
寒さは人の心を鎮めるどころか、どこかざらつかせていた。
その日、暁狐は町に出ていた。
白鐘家の仮の屋敷から、忠太と風音と共に、冬支度の品を買い揃えるためだった。
──けれど、その町の空気に、微かな異変が入り込んでいる。
面をつけたまま、風音を懐に歩く姿は、以前は人々の目を引きこそすれ、石を投げられるようなことはなかった。忠太がついていたこともあってか、誰も直接的な非礼はしなかった。
しかし、今日──その空気が、微かに変わっていた。
「なあ、お前見たか? あの面の子……夜な夜な、屋根を這ってんだってよ」
「やめとけって。あれは疫病神だって婆さまが言ってた。目ェ合わせたら呪われるぞ」
すれ違いざまの声。
わざとらしいほど大きく、けれど決して暁狐には向けられないように話される。
それは、あまりにも幼稚な『陰口』でありながら、背後に「誰かの意図」が透けて見えるような、寒々しいものだった。
忠太が一度振り返った。
目が合うと、男たちはそそくさと横道に逃げていった。
「……チッ。あからさま過ぎんだろ、ったく」
小さく舌打ちをして、忠太は暁狐を促す。
買い物はすでに済んでいた。風音は懐の中で眠っている。
暁狐は何も言わず、黙って歩き続ける。
だが、その沈黙こそが、ますます町人たちの恐怖と不安を煽っていくのだろう。
(……仮面を、外さなきゃ……)
誰かが、そう呟いた気がした。
しかし、少年は首を横に振る。
それは己の意志ではなく、心のどこかでそう囁く『声』への否と言うように。
やがて、小さな路地の角で、事件が起きた。
子供の泣き声。
小石が、パシリと仮面に当たった音。
ほんの一瞬の出来事だった。
「な、何するんだ、おいッ!」
忠太の怒鳴り声が町角に響き、石を投げた少年の母親らしき女が血相を変えて駆け寄る。
女は叫んだ。
「あ、あの子が! この子を……攫おうとしたのよ! 仮面の子が!」
「攫う!? 誰がそんなこと……」
「疫病が出たのも、あの子が来てからよ! みんな言ってる、あの仮面は呪いの証だって!」
忠太の怒りは沸騰寸前だったが、仮面の少年がゆっくりと一歩、後ろに下がった。
その動きに、忠太は口を閉じた。
少年は、面越しに女を見つめていた。
何も言わず、ただじっと。
泣いていた子供が、次第に泣きやんでいく。
女は怯えたように子を抱きしめ、早々に立ち去った。
その場に、奇妙な静寂が落ちた。
町の誰も、助け舟を出さなかった。
ただ、遠巻きに──面の者が通り過ぎるのを、物珍しげに、あるいは憎悪のような目で見ていた。
「……帰ろう。もう、いいだろ」
忠太の声が、やけに低く響いた。
暁狐は小さく頷き、再び歩き出した。
風音が、籠の中でぴくりと耳を動かす。
その耳の先が──風のない場所で、ふと何かを感じ取ったように震えていた。
(……誰かに、見られている)
面の奥で、瞳がわずかに揺れた。呼吸が一度、浅くなる。風は吹いていないのに、背筋を冷たい何かが這い上がるような──そんな気配だった。
しかし、それはあの男とは愉悦と嘲笑を含んだ視線とは違う。
屋敷に戻ったあと、忠太は一言も喋らなかった。
冬枯れの勝手口に積まれた薪を黙々と運び、囲炉裏の火をくべては、無言で灰をならす。
暁狐もまた、面のままその様子を静かに見つめ、風音はその隣で丸くなっていた。
日が暮れかける頃、左近が口を開いた。
「……変ですね。町の噂、急すぎませんか」
囲炉裏の縁で湯を温めながら、彼は眉をひそめた。
「俺も聞きました。『仮面の子が人を攫う』とか、『面をつけた子が病を運んでくる』とか……」
「……誰かが、流してやがる」
ようやく声を発した忠太の声音は、いつになく冷え切っていた。
それは冬の気温ではなく、もっと別の、感情の凍結によるものだ。
「面をつけた主を……狙ってる誰かが、町ごと包もうとしてやがる。そうでなきゃ、あの速さじゃ広がらねぇ」
左近がちらと暁狐を見やる。
少年は、微動だにせず黙していた。
焚き火の光が仮面の面に反射し、微かにゆらいで見える。
その時だった。
バサ、と。
門の外で、何かが落ちた音がした。
「……?」
忠太が眉を寄せて立ち上がる。
「俺、見てきます」
左近が外套を羽織り、玄関へ向かう。
戻ってきた彼の手に握られていたもの──それは、一片の仮面の破片だった。
「これ、門前に……誰かが置いていったんでしょうか」
薄汚れてはいるが、割れた面の一部。
その形は──『影狐の面』と呼ばれるあの異形に、どこか似ていた。
「……脅し、か」
忠太が吐き捨てる。
「……いや」
左近がぽつりと漏らす。
「『警告』かもしれません」
皆の目が、彼に向けられた。
「何かが来る、と……それを、誰かが知らせようとしてる……そんな気もします」
沈黙が落ちる。
囲炉裏の火が、パチ、と音を立てて弾けた。
その夜、隠れ家は早めに戸を閉めた。
左近が見回りを引き受け、忠太は玄関近くに寝床を移した。
暁狐は二階の自室、窓際に座り、風音を膝に抱いていた。
部屋の中は冷える。火鉢の炭では追いつかず、空気は白くなるほどだった。
けれども、仮面の少年は外を見つめ続けていた。
何かが来る。
それは確信ではない。だが──肌に、風に、空気のざわめきに、宿る『気配』があった。
風音が、ふと顔を上げた。
仮面の内側で、少年のまなざしもわずかに動く。
通りの向こう──の屋根の上に、一瞬だけ、影が通ったように見えた。
音はなかった。
声もない。
けれど、風音の耳はぴくりと動き、仮面の少年はゆっくりと立ち上がる。
誰も見ていないと思われたその瞬間、確かに『何者か』が、隠れ家の周囲を歩いたのだ。
忠太が遠くから気配を感じたのか、すぐに戻ってくる。
「……気のせい、じゃねぇな。いる。外に」
剣に手をかけながら、彼は暁狐をかばうように立った。
「主さま、今夜は、俺が寝ずに見張る。絶対、近づけさせねぇ」
暁狐は、忠太の言葉に何も返さず、ただ静かに座り直す。
風音の体を包み込むようにして。
その身からは、何一つ言葉が出ない。
だが──その瞳は、すでに『決意』を湛えていた。
明確な襲撃は、まだ起きていない。
けれど、それは必ず『来る』のだ。
何かが、動き始めている。
誰かが、意図してこの影を──この面の少年を、引きずり出そうとしている。
その誰かは名も告げず、姿も見せず、ただ気配だけを残して、この夜に忍び寄る。
冷たく澄んだ空気が広がり、月の光が凛と輝き、北風が音をたてながら、吹き抜ける。
屋敷の灯は落とされ、見回りに立った忠太の足音だけが、闇の静けさに淡く響いていた。
一方で──
暁狐は面のまま、縁側に腰を下ろしていた。
火鉢の灰の中で赤く灯る炭を前に、風音を膝に抱いたまま、じっと外を見つめている。
風は冷たく、空気は白く凍えていた。
少年はその場を動かず、面を外そうとはしなかった。
己がこの場に居ることで、誰かがまた傷つくかもしれない。
それは何度も、胸に過った思いだった。
(……それでも、逃げれば──もう戻れない)
去るということは、信頼を捨てること。
再び誰かと共にある道を、自ら断つこと。
それを、この身で決めてはならない。
この場所は、あの人が守ろうとした場所──
だからこそ、自分もまた、この屋敷に在るべきなのだと、そう思った。
風音が、彼の膝の上で小さく身じろぎした。
寒さに震えたのか、それとも、主の迷いに気づいたのか──
眠っていたはずのその瞳が、じっと仮面を見上げていた。
その温もりに、表情が微かに揺れる。
まるで「ここにいて」と言われたような、そんな錯覚。
(……あのときも、誰かにそう言われた)
記憶の奥底に、遠くかすれた声が浮かぶ。
輪郭の定かでない女の面影──優しく、あたたかく、どこか哀しい。
「……いて、くれるだけで、いいのよ……」
けれどその声は、すぐに夜風の中へ溶けていった。
霧のように儚く、触れようとすれば消える幻。
暁狐は目を閉じる。
風音を両腕に包み、膝の上にそっと重ねるように抱いた。
そのとき、障子越しに、静かな声がした。
「……主さま」
左近だった。
開けようとせず、ただ障子の向こうから、穏やかな声を落とす。
「どれほど噂が流れようと、世が何を囁こうと……どうか、それをお気になさらぬよう。あなた様がここにいてくださることに、意味があると私は信じています」
返事はなかった。
けれど、その言葉は確かに届いていた。
誰かに必要とされること。
それは、面を被っていても、沈黙を守っていても、消えない『繋がり』なのだと──
暁狐は、ゆっくりと背を伸ばした。
風音の柔らかな体温が、まだ腕の中にある。
逃げることは簡単だ。
でもそれは、自分が何者でもなくなるということ。
だからこそ、この場に留まる。
ここに居るということを、選ぶ。
縁側の外、夜空は澄んでいた。
月はまだ欠けており、庭には影ばかりが落ちている。
その影に、何者かの気配が紛れ込んでいたとしても──もう怯えることはなかった。
暁狐は、立ち上がり、背を向けた。
面の奥、瞳だけが夜の向こうを見据えていた。
面を閉じ、背を向けたまま──それでも、暁狐の影は確かに強く、まっすぐ伸びていた。
暁狐、十七歳初冬。




