第一話 仮面の道行
第五章 暁に立つ
第一話 仮面の道行
初春の空はまだ白く、京の町には薄雪の名残が所々に残っていた。
旅の一行が都を発つその朝、白鐘家の屋敷は、早朝から静かに支度が進められていた。
面の少年──暁狐は、風音を抱いて中庭に佇んでいた。
その眼差しは、まだ色を帯びぬ東の空を見つめている。
左近がそっと歩み寄ってきた。
「御出立の準備は整っております。馬は裏門に」
暁狐は静かに頷いた。その傍らでは、風音が名残惜しげに庭を見つめていた。
「……暁狐様も、風音も、ここが好きだった」
左近の呟きに、少年は小さく「うん」とだけ答えた。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてくる。宮中の楽人──豊原清秋である。
いつもと違うのは、その手に何かを持っていること。
「暁狐殿」
短く名を呼び、彼は白木の箱を差し出した。
開けば中には、蒔絵の施された黒地の舞扇。朝焼けに金箔が、かすかに光を宿している。
「別れの品だ。持っていけ」
暁狐は目を瞬かせた。
「……こんな高価なものを、いただいても……」
「贈り物には意味がある。お前にとって、舞いは武であり、問いであり、誇りだろう。ならば、それを携えてゆけ。外出時は必ず肌身離さずにしろ──緊急時には、要を外せ」
一瞬、言葉の意味が掴めずにいると、清秋は静かに付け加える。
「要を解けば、扇の骨は刃へと姿を変える。……いざという時の、護りだ」
少年は小さく息を呑んだ。
「……ありがとうございます、清秋殿」
清秋はそれに応えず、ただ手を振った。
「さっさと行け。見送るのは柄じゃない」
暁狐は深く頭を下げ、左近と共に裏門へ向かう。
麻佐は既に門の前に待っていた。澄んだ瞳に、わずかに涙を宿している。
「気をつけて……左近、どうか暁狐様を……」
「心得ております」
馬が二頭、静かに蹄を鳴らしていた。
左近が引く一頭には荷が積まれ、もう一頭に暁狐がまたがる。
風音が肩に乗ったその瞬間──風が吹いた。
雪を運ぶ風が、まだ冷たい気配を纏い、二人の頬を撫でる。
面の少年は、誰にも言葉を残さなかった。
ただ一度、京の空を仰ぎ、目を細める。
(問いは、まだ尽きていない)
そう思いながら、馬の腹を蹴る。
白鐘家の門が、静かに閉ざされた。
「……左近がついていくのは、心強いことですが」
清秋は、隣に立つ麻佐に目を向けた。
「……麻佐殿は、本当にここに残るのですね」
「はい。清雅様の命です。私はこの屋敷で、これからも暁狐様のために、京の声を聴き続けます」
清秋はふと、麻佐の横顔を見つめる。
彼女が、どれほどの想いであの子を見守ってきたのか──その眼差しに、清秋は改めて気づかされる。
怒りを、迷いを、沈黙を──仮面の奥の目の変化を、誰よりも近くで。
「……貴女のような方に、あの子を預けられたのは幸運でした」
自分でも意外な言葉を口にし、そっと目を細めた。
「本当は……私も、江戸へゆきたいのですよ。あの子が、どんなふうに変わるのか。どこまで、冷たくなるのかを……見届けたいのに」
「冷たくなる、とは──?」
麻佐の問いに、清秋は静かに頷いた。
「ええ。あの子は、きっとこれからもっと強くなる。そのぶん……なにかを手放していく気がするのです。優しさとか、あたたかさとか──そういうものを」
(それでも、あの子はきっと問いを捨てない)
「萬万が一、何かあった時に、扇が役に立つこともあるやもしれませぬ」
(そうならないよう、導くのは……)
馬の蹄の音はもう聞こえない。
寒風の音が清秋の耳をすり抜けた。
京の町を離れ、旅は始まった。
山を越え、川を渡る。道中には冬の名残がまだ色濃く残り、白く凍った枯れ野に風が鳴る。
面の少年──暁狐は、風音を肩に乗せたまま、無言で馬を進める。風音は寒くなったのか、暁狐の懐にはいる。
左近もまた、必要以上の言葉を交わすことはなかった。だが、彼のまなざしは絶えず少年の背を追っている。主従ではあれど、それ以上の誓いがそこにはあった。
江戸への道のりは長い。けれど、暁狐の足取りに迷いはない。
剣を振るい、舞いを知り、問いを抱え──あらゆる試練を経た少年にとって、もはや旅は逃避ではなかった。道を選び、歩むという決意の証。
ある峠を越えたとき、左近が馬を並べて声をかけた。
「……江戸では、私の兄が迎えるはずです」
「兄?」
「はい。名は忠太。足軽をしています。江戸から暁狐様と共に来ましたが、今は江戸に戻っています。私は幼い頃から兄と別れ、京の地に留まりました」
暁狐は面の下でわずかに目を細めた。
「……理由は?」
「白と鐘は、白鐘家の象徴。兄は江戸の表、私は京の影──それが、我らに与えられた役割でした」
それはつまり、白鐘家が江戸と京に分かれて根を張っていたということ。表向きは一族、裏では二つの顔。暁狐はその意味を悟る。
「……清雅様の意図、か」
「恐らくは。江戸では、おそらく貴方様も『仮面のまま』ではいられなくなります」
左近の声には、微かな警告が含まれていた。
江戸──幕府の中枢たるその場所では、面などという異端は、いずれ排斥の対象となるだろう。
「分かっている。……でも、それでも」
暁狐の声は低く、けれど静かな熱を帯びていた。
「まだ、問いは尽きていない。面を被っていても、面のままで進める道があるなら、進んでみたい」
左近はそれ以上、何も言わなかった。ただ、馬の手綱を握る手に、少しだけ力がこもった。
数日をかけて峠を下り、街道沿いの宿場に入る。小さな宿を見つけ、一夜の休息をとることとなった。
夕餉の膳を囲むと、左近が懐から封筒を取り出した。
「これは……京を発つ直前に、清雅様より預かりました。人買いの件、正式に調査が始まったとの報です」
暁狐が無言で受け取り、中を開く。そこには簡潔な筆致で記されていた。
──人買いの一味、幾名か捕縛。
背後に朝廷関係者の名があり、調査は継続中。
子どもたちの身柄は保護され、順次引き渡し予定。
水無瀬と通じる者、特定には至らず。
暁狐は、静かに紙片を伏せた。
(……終わってなどいない)
まだ京には、面の気配が残っている。
あの街に染みついたように。
少年は、かすかな白菊の香を思い出していた。
灯火に面の輪郭が浮かび上がる。
(問いは、道の先にある)
宿の静寂に包まれながら、少年は面を撫でる。
心の奥で、誰かの笑顔と涙が交錯する気がした。
だが今は、ただ──
焔がゆらぐその音を、静かに聴いていた。
暁狐、十六歳厳冬。




