第七話 夜を裂く声
第四章 京の月、狐の影
第七話 夜を裂く声
空が鳴っている。
遠くの山の端で、何かが呻くように風が唸っていた。
厳冬の京──年も暮れようとしている。だが、雪はまだ降らず、冷えた空気だけが地を這い、屋敷の障子を軋ませていた。
暁狐は、庭に面した縁先に座していた。仮面のまま、じっと空を見上げている。
膝の上では風音が丸くなり、白い毛をふるわせていた。
その目に映っていたのは、灰色に煙る空だけではない。
(……あの夜から、何かが変わった)
紫宸殿での舞。
答えなき問いを胸に、己の存在をさらけ出したあの一夜。
見られることは、思っていたよりもずっと重かった。
仮面を通して注がれる視線。そのひとつひとつが、己の過去や怒りを問うてくるようだった。
だが、逃げることはできない。仮面を被っているかぎり、いや──問う者であるかぎり。
「暁狐様」
背後から声がかかった。麻佐だ。
「……左近が参りました。少し、お話があるとのことです」
暁狐は仮面の奥で目を細め、ゆるく頷く。
屋敷の一隅、応接の間に入ると、左近が控えていた。険しい顔をしている。
「暁狐様。……一件、気になる話がありましてな。例の、保護された子どもたちの中で、消息を絶った者が……」
「また、か」
「はい。ただ、今回は妙なことがあるのです。目撃されたのです──仮面をつけた何者かに連れられて行くところを」
暁狐は小さく息を呑んだ。
再び、あの『影』──かつて屋根の上で視線を交わした、歪んだ狐面の存在。
「調べる」
声は小さかったが、凛としていた。
左近が小さく頷く。
「仮面のままですか?」
「……その方が、早い」
風音がそっと足元に寄ってきた。何かを察したように、静かに鳴く。
「清雅様には?」
「……後ほど、お伝えします」
そう答えると、暁狐は静かに立ち上がった。
再び、夜の町へ。
町の空気は、少しずつ変わってきていた。
かつては「異様」だった仮面姿も、今や一部では「視る者」として受け入れられつつある。
けれど、それは同時に──模倣の危険を孕む。
暁狐は裏通りを辿っていく。薄闇の中、耳を澄ませば、わずかな呻き声が届いた。
細い路地の先、打ち捨てられた小屋。そこに──気配。
暁狐は、静かに近づいた。
扉を押し開ける。
いた。
片隅に、蹲る子ども。その手首は縄で縛られ、隣には仮面の影──
あの『影』が、そこに立っていた。
月明かりでもわかる白い髪、黒装束、そして──歪んだ狐の面。
気配に気づいたのか、『それ』がゆっくりと顔を上げる。
「……来たか」
その声は、嗤うようでいて、どこか冷たく、深く沈んでいた。
暁狐は、ひとつ息を吐く。
「お前は──誰だ」
「誰でもないさ。……そうだろう? 俺たちは、仮面だ」
子どもの背後に立つその姿は、まるで影法師。
だが、確かに『剣』の気配を纏っている。
(この気配……ただの人間ではない)
その刹那、『影』が指先を動かした。
子どもがよろめく。縄が解けていく。
「返すさ。取引のつもりはない。ただ──少し、試しただけだ」
「……試す?」
「『問い』を宿す者が、どこまで堕ちぬか。……それを、見たくてな」
そう言って、『影』はゆっくりと仮面を傾ける。
「次は、もっと深くまで来い。……暁狐」
名を呼ばれた瞬間、暁狐の足が一歩、前に出た。
「なぜ名を……!」
だが──次の瞬間、『影』の姿はかき消えていた。まるで、闇そのものに溶けるように。
取り残された子どもが、怯えた声で泣き出す。
暁狐はそっと近づき、縄を解き、その肩に手を置いた。
「……大丈夫だ。もう、誰にも連れて行かせない」
その声の奥にある怒りを、冷笑がかろうじて封じていた。
──その夜、清雅は書斎にいた。今も心に残るのは、舞台に立ったあの少年の姿。
闇に沈む庭の紅葉を眺めながら、清雅は筆を止める。
囲炉裏に火を落とし、静かに文を前にしている。
いつもは暁狐の膝にいる風音が、今夜は珍しく彼の膝の上にいる。
「……また、面のまま出ていったのか」
誰にともなく呟く。
仮面をつけたまま問いを追い、歪んだ笑み浮かべながら、剣を抜かずに怒りと向き合う。
清雅は、それを誇りに思いながらも、同時に危うさも感じていた。
(問う者は、時に、問うことそのものに呑まれる)
清雅は、ふと筆を置いた。
かすかに漂う香──白菊の香。
あのとき、紫宸殿の後座所から香った匂いと同じ。
「……お前が、視ていたのか」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
だが、そのとき、襖の外から小さな足音がした。
清雅は振り向く。
「──戻ったか」
開いた襖の向こうに、仮面の少年。
風が、再び、屋敷に吹き込んだ。
白鐘の屋敷は静かだった。舞を終えた夜の静けさは、演目の余韻というにはあまりに深く、仮面を脱がぬままの少年を見て、清雅はひとつ息を吐いた。
演舞が終わってから、まださほど時は経っていない。だが、その沈黙の中で、暁狐の気配は幾分変わっていた。仮面の奥から、ただ問いを持つ者の匂いがした。
「そなた、今日の舞は、見事に見せるところあったな」
声に、暁狐は小さく頭を下げた。
「だが──」
清雅は火鉢に炭をひとつ加える。ぱちり、と乾いた音が空気を打つ。
「舞台に立つということは、ただ視られる存在になるだけでなく、己の問いに向き合うことだ。……そなたは、己に問いを投げ、答えを求める覚悟があるか」
「……はい」
短く、それでいて確かな返事だった。仮面越しでも、目を逸らさずに言えたのなら──今のあの子は、確かに、迷いながらも歩き出している。
清雅は静かに頷いた。
「よい。あとは、問いを育ててゆけ。……それが、剣を持つ者の務めだ」
暁狐が仮面を外そうとはせず、そのまま一礼したまま動かない。
「……なにか、気になることがあるか」
「いえ。ただ……舞が終わった時に、白菊の香がしました」
ふと、言いよどむ。続く言葉はなかった。
(……白菊)
それは、御所で広く用いられる香のひとつ。特段、珍しいものではない。だが、あの子が「感じた」と言った以上、意味がないわけではないだろう。
そして、ふと脳裏に浮かんだのは──もう一つの視線。
舞の最中、確かに一度、庭を通り過ぎる気配を感じた。あれはただの風ではない。冷たい視線、意志を帯びた眼差し。
(……歪んだ、狐の面。あれが、また動き出したか)
面の気配──問いの裏には、必ず誰かの『目』がある。
暁狐を『視ている者』は、舞台の外にもいる。
清雅は目を細めた。
「……あの舞、視ていた者は多い。称賛もあれば、警戒もあろう。だが、忘れるな。『答えを持つ者』ではない。『問いを抱える者』であることが、そなたの刃となる」
その言葉に、暁狐は静かに頷く。
仮面の奥、あの少年の目が、何かを確かめるように清雅を見ていた。
「もう、休め。風音が待っている」
「……はい」
短く答え、暁狐は踵を返した。
どこからともなく風が吹き抜けた。
香ではない。だが、それも確かに『何か』を告げていた──
(……水無瀬)
清雅の記憶が、鋭く疼く。
かつて剣を教えた男。すべてを裏切り、血を残した者。切り捨てたはずの影──
(……また、現れたか)
あれがこの夜に現れたというならば──近いうち、あの子にまた試練が訪れることになる。
「……だからこそ、お前は問わねばならぬのだ。仮面のままでな」
炎が、炭を食む音だけが、部屋に残っていた。
問いの舞は終わった。
だが、影は次の夜を、確かに連れてきていた。
暁狐、十六歳師走。




