第二話 影の帳、差す光
第四章 京の月、狐の影
第二話 影の帳、差す光
面の内側に、湿った風が触れた。
京の町を歩く暁狐の呼吸は、浅く整っていた。だが、その歩みの奥には、わずかな違和感と緊張が根を張っている。
この都は、江戸とはまるで違う。
碁盤の目のように整えられた道。赤土の壁と低い屋根。町家の並ぶ通りに、仄かに香る香木のにおい。だが、それらはどこか表面的で──貼り付けたような無言の整然さがあった。
面の奥で、少年の瞳が動く。
通りの向こうに、白い頭巾を被った老婆がしゃがんでいた。片足を引きずっているのか、動きは鈍い。
何かを売るような仕草をしているが、誰も足を止めない。
視線が、暁狐の仮面に触れた瞬間、老婆の手が震えた。
そして、ゆっくりと背を向け、何事もなかったかのように別の方へ顔を向ける。
(……視られることに慣れたはずなのに)
京は、視る。そして斜めに測る。
仮面の者を、値踏みするように、恐れるように、あるいは無視するように。
すれ違う人々が発する気配の中に、言葉はなかった。けれど、その沈黙こそが、この町の『声』なのだと、暁狐は理解していた。
「おや……若いのに、随分と仮面なんて……」
声をかけたのは、肩衣を着た老人だった。店先に座って油紙を包んでいる。商いの一端だろうか。
「ま、構わんよ。京には『隠す』者も、『隠される』者も、昔からようけおる。──おおきに」
軽く頭を下げてくるその仕草は、どこか上滑りしていた。
他意はない。だが、心も寄ってはこない。
それが、『表』の京。
しばらくして、暁狐は路地裏へと足を踏み入れた。
陽射しの届かぬ道に、湿った布が垂れ、桶の水が濁っている。
そこに、人の声があった。
「お兄さん、旅の人? 仮面の……それ、似合ってるよ」
ふいに、脇から声がした。
見ると、古びた屏風の陰に、少年がひとり腰かけていた。年は暁狐と変わらず、あるいは少し上だろう。
衣は派手すぎず、だが、大きく襟を抜き、首から胸にかけて白粉が斑らに残っている。
少年は『色』を売っているのだろう。
少年は目を細め、暁狐の面を覗き込むようにして笑った。
「怖がらなくていいよ。こっちじゃ、よく見るから」
その声は、どこか甘えたようでいて、芯の抜けたような……疲れきった響きがあった。
暁狐は、何も言わなかった。
ただ、その場を離れた。
(……『裏』がある)
町の奥には、陽射しが届かぬほどの深い影がある。
仮面をつけた者に、誰も声をかけぬ通り。
けれど、その陰にいる者たちは、誰よりもこちらを『視て』いる。
言葉にならない重さが、肩に積もっていた。
その夜、暁狐は屋敷に戻った。
麻佐が湯を張り、左近が衣を取り替える。風音は籠の中でまるくなって眠っている。
ふと、机の上にニ通の封書が置かれていた。
見覚えのある筆跡。
──澪。
もう一通、庄太。
二通とも、江戸からの手紙だった。
封を切る手が、少しだけ震える。
澪の手紙は、丁寧な筆遣いで淡々と綴られていた。最近の別邸の様子、忠晃の不在、風音のことを心配していること。
そして──
「暁狐様、どうかご無理はなさらぬよう。江戸はもう夏の匂いが近づいております」
それだけだった。
庄太の手紙は、もっと稚拙な字だったが、温かさが滲んでいた。
町で見た飴細工のこと。暴漢が現れた通りの話。澪の左手がまだうまく使えないこと。
「よく会えた。澪がな、風音を逃してしまったと泣くんだ。だから、本当によかった。そんで、連れて帰ってやってくれな」
文を置いた暁狐は、そっと目を閉じた。
面の奥に、問いがまた立ち上がっていた。
(なぜ、自分はここにいる?)
(何を『視て』、何を『知らねば』ならぬのか?)
──答えは、まだ遠い。
けれど、京の風の中には、確かに何かがある。
それは、仮面をつけた者にしか届かない『気配』。
そして──
「……視られながら、生きる」
小さく呟いた言葉が、空気の中に溶けていった。
夜の帳が、音もなく降りていた。
昼過ぎの陽射しが、路地の奥にまでじわりと染み込んでいる。瓦屋根の隙間から差す光は、どこか濁って見えた。
暁狐は、また京の通りを歩いていた。
緊張は抜けない。面の内側の肌に汗が滲む。けれど、手にした文はすでに渡し終えた。今はただ、屋敷への帰路を進んでいるだけ──のはずだった。
ふと、横の路地から音がした。
掠れた咳と、小さなすすり泣き。暁狐は足を止め、そちらを見やる。
土の匂いのする細道。人通りのない裏通りに、崩れかけた木箱を積んだ隅に、ふたりの子どもがうずくまっていた。
年の頃は七つか八つの少女。そして、腕に抱かれるのはそれよりさらに幼い男の子。弟だろう。
少女の小袖は元の色や模様がわからぬほどに汚れ、片方の袖は裂け、足元は素足だった。弟の頬は土に汚れ、うわごとのように何かを呟いている。
(……出会った時の澪と、同じくらいか)
面の奥で、暁狐の視線が鋭くなる。
少女はこちらに気づき、ぎょっとした顔で弟を抱き寄せる。恐れと、諦めと、警戒。仮面に対して向けられる、典型的な反応だった。
けれど──
「……水、いる?」
そう問いかけると、少女は驚いた顔をした。
懐から竹筒を取り出す。朝、屋敷を出る前に用意された水だ。
しばらくの沈黙ののち、少女がゆっくりと頷く。暁狐はそれをそっと地面に置くと、何も言わずに背を向けた。
そのまま、再び通りへ戻る。
(俺にできるのは、それだけだ)
剣は抜けなかった。問いにも、まだ答えられない。
けれど、仮面の奥で、何かが少しずつ確かになっていくのを感じていた。
──都の影には、声なき者たちがいる。
彼らを見つめ、見つめられながら、進んでいく。仮面をつけたままで。
日が少し傾き始めたころ、腹の虫が鳴った。朝からほとんど何も口にしていなかったことを思い出す。
目についた小さな飯屋に足を向ける。
木戸の前に立ち、軽く戸を叩く。店主と思しき中年の男が顔を出し──仮面を見た瞬間、露骨に顔をしかめた。
「……あんた、病か?」
「ちがいます」
「なら、なんでそんな面つけてんだ。うちはそういう客、勘弁してもらってる」
明確な拒絶。
暁狐は言い返すこともなく、ただ小さく頭を下げて店先を離れようとした。
そのとき。
「ちょっと待った。そこの子は、私と一緒だよ」
乾いた声。振り向くと、皺の深い老婆がひとり、店の前に立っていた。
ぼろ布のような外套を羽織り、草履も擦り切れているが、その立ち姿には不思議な重みがあった。
店主は一瞬口を開きかけたが、老婆の眼差しを受けて何も言えなくなる。
「奥、空いてるだろう。あの子と私で、席ひとつでじゅうぶん足りるよ」
そう言いきって、老婆は勝手に店の中へと入っていく。暁狐は一瞬ためらった。
面の奥から感じ取った気配は、どこか『裏』のものだった。
店内は薄暗く、奥の席はちょうど外の光が差し込まぬ位置にある。
老婆は腰を下ろし、注文もせず、ただ暁狐を見つめていた。
「名は?」
「……白鐘 暁狐です」
「偉い名だ。……だが、仮面の子は、名より『問い』のほうが重いよ」
暁狐の背筋がわずかに震える。
「『問い』があるんだろ? それでいい。それがあるうちは、呑まれちゃいない」
「……仮面の意味を、知っているのですか?」
「知るとも。あんたみたいな目をしてた子を、昔ひとり見たよ。……いまはもう、どこにいるやら」
それ以上、老婆は多くを語らなかった。
やがて、料理が運ばれてくる。老婆はほとんど手をつけず、暁狐が口をつけるのを見守っていた。
そして──食べ終える頃には、姿を消していた。
(……誰だったんだ)
答えはない。けれど、仮面の奥で、またひとつ『問い』が増えた気がした。
屋敷へ戻る道すがら、陽はすっかり傾きかけていた。
人々の気配はなお濃く、通りを行き交う声や足音、笑い声すらも、どこか遠く感じられた。
(……問い)
老婆の言葉が、耳の奥でまだくすぶっている。
「問いがあるうちは、呑まれちゃいない」
あの言葉は、仮面の『声』と、どこか響き合っていた。
──問いを持て。問いを持たぬ者は、仮面に呑まれる。
問いがある限り、自分を失わずにいられる。そう、信じたい。
屋敷に戻ると、玄関先には左近が待っていた。
「……お戻りですね。麻佐様が、湯殿の支度を」
「うん。風音は?」
「少し前に目を覚まして、今は……」
言い終わる前に、廊下の奥から小さな鳴き声が聞こえた。
「……にゃあ」
暁狐は、反射的に足を早めた。
部屋の戸を開けると、麻佐がそっと膝に風音を乗せていた。毛並みはまだ荒れているが、瞳には以前のような輝きが戻ってきていた。
「ただいま」
そう声をかけると、風音はぴくりと耳を動かし、膝の上から飛び降りると、よたよたとした足取りで暁狐の足元へと駆け寄った。
抱き上げると、細い爪が胸元の布をかすかに引っ掻いた。
重くはない。けれど、その温もりが、胸に残る。
(……おかえり)
そう言ってくれている気がした。
「仮面は……つけたままでおいでですか?」
麻佐が問うた。暁狐は頷く。
「もう少しだけ……このままで」
麻佐はそれ以上、何も言わなかった。ただ微笑み、障子を閉めた。
風音を抱きしめたまま、縁側に腰を下ろす。
空には、もう夜の帳が降り始めていた。
そのとき、足音が近づく。静かで、けれど隠しきれぬ風格を宿した音。
「……戻ったか」
清雅だった。夜の帳を背負ったような姿で、縁側に佇む。
「今日の都は、どう視えた?」
「……わかりません。でも、問いは得ました」
その言葉に、清雅は満足そうに目を細めた。
「それでよい。問いを得た者だけが、次へ進める。答えなど、すぐにはいらぬ」
「はい」
「都の『裏』は、奥深い。光あるところに、影は必ずある。これより、お前の歩む道は……その影の中だ」
暁狐は、風音の背を撫でながら、仮面の内側で静かに瞳を伏せた。
そして──仮面の奥から、声がした。
──その問いこそが、お前の剣となる。
不意に風が吹く。春の夜風。あたたかくも、どこか湿り気を帯びた風。
問いが、胸の奥で灯をともしたようだった。
(なぜ、剣を抜けなかったのか。なぜ、面をつけているのか。なぜ、自分はここにいるのか)
その問いを胸に、歩いていける。
面の奥の目が、夜の京を──その裏に潜む何かを、確かに見据えていた。
暁狐、十五歳晩春。




