ディナーへの招待
モアが一歩近づくと、男はずっと保っていたポーカーフェイスを崩し、一歩退いた。
「ごめん。悪気はないんだ」その男は本当に悪気はないと目で訴えかけてきた。
シンカという男だった。シンカはすぐにその場から立ち去った。シンカは去り際にもう一度モアを振りかえりみた。綺麗な彼女の姿に惚れ惚れした。しかし、その想いは恐怖という一色で塗りつぶされてしまった。なにか決定的なできごとでも起きない限り、その恐怖が取り除かれることはありえないんだ、とシンカは歯噛みした。
シンカは授業が終わると、うつむき加減に歩き始めた。すでに夜のとばりが下り、外気は冷たかった。通りは塾学生の人込みで溢れかえっていた。シンカの通っている塾と向かいに立つ塾は一二を争う名門塾だった。シンカは無駄に対抗意識を抱く性格ではない。ただ少しの嫌悪感を抱くだけだ。
シンカが帰路を歩いていると、背後に気配を感じた。「モアか?」シンカはモアがいつものすました表情で退屈そうな瞳を浮かべているのを見て、面倒くさいなあと思った。
「私が怖いの?」
モアは横に並んで、ちらちらとシンカの顔色を窺って言った。シンカは前を向いたまま視線を動かさない。
「怖くないよ。意識し過ぎているのかも。もう癖みたいなものだから、モアが気にする必要はない」
「他には?」とモア。
「他に怖いものは?」
シンカは数舜だまった後、早口に言った。「いや、特にないよ」
朝になると部屋の扉があく音が聞こえた。これはおれの家の扉じゃない-シンカは目を覚まして、まず最初にそう思った。隣の家の扉。きっとモアだ。午前七時になると必ず聞こえる音だった。午前七時はモアが登校する時間帯なのだ。
「朝ご飯いらないの?」と母が言った。シンカはテーブルに載せられた食パンを見て、腹の底から吐き気を催しかけた。このパンは違う。おれが本当に欲しいものじゃない。くそったれ。シンカは頭が痛くなったので、眉間を揉んだ。朝ご飯食べない人間なんて何人いる? きっとクラスメイトのみんなが口を揃えて答えるぜ。「朝ご飯なんて食べない」ってな。
「いらない!」
朝ご飯食べないことはフツウのことなんだ、とシンカは自分に言い聞かせた。それでも頭痛は治まらなかった。より一層酷くなりかけていた。きっと食を一年絶ったとしてもこの食パンを食べる日は永遠に来ないだろう、と思った。
長い授業が終わったとシンカはため息をついた。「あんたは本当にその紫色のトマトが好きなんだね」
「これはフツウのトマトじゃないよ」シンカは茄子のように色づいたトマトをモアの掌に置いた。「一口食べてみて」
モアは食べかけの焼きそばパンをシンカに手渡すと、紫トマトにかぶりついた。
彼女は何の躊躇いもなくがぶっといった。モアらしいなとシンカは思った。
「どう?」とシンカ。
「最高に美味しい。それ以上の言葉がないのが悲しく思えるくらいだ。これどこで買えるんだ?」
「どこで買えるか分かったとしても、モアには買えないよ。高いんだ。かなりね」とシンカが言い終えると、モアはにやりと笑みを浮かべてズイッと身を寄せてきた。
「そういえばあんたって私が怖いのよね?」怖いのではない。それとは少し違う気がした。おれは意識しているんだ、とシンカは気づいていた。
「脅しているのか? 本当におれがモアを恐れていると思っているのか?」シンカはその美貌ゆえにかなり警戒心が高いので、彼女の肌に触れることはきっと両親でも許されない。密着したとき、鼓動が早まった。
「ええ。現にあんたは怖がってる。私から離れようと体が引いてるもの」モアはシンカの腕をとった。「それに鳥肌もすごく立ってる。怖くないって言われても、信じるわけないじゃん」
「もしかして女性恐怖症? それとも単に女が嫌い? でも、他の女子たちを避けている気配はなかったね」モアは他の女子とは異なる。特別な女性だからだとシンカは思った。
「女性だから怖いわけじゃない」
「へえ」とモア。
「モアのしたいことは分かった。奢るよ。だからいい加減に離れてくれないかな?」
モアは素直にもとの姿勢に戻り、焼きそばパンをシンカから受け取った。しかし、もう食べる気配を一瞬さえ見せなかった。
彼女の目は世界にあふれる全てに意味なんてないと言いたげだった。そんな彼女の目がバラ色に色づく瞬間をシンカは目にした。モアの視線は茄子色のトマトに釘付けになっていた。
シンカが茄子色のトマトを口に運ぶと、モアはようやくハッとして我に返った。
「あんたはさ、性別っていうものにこだわりすぎなんだよ。私には人間皆が機械人形に見えるけどね」
シンカは笑って言った。「モアの言うとおり、おれは繊細な性格なんでね。機械人形的に言うと、成長するどこかの段階で繊細さをインストールされたのさ」
「さてはA型だな?」とモア。
「残念。おれのような機械人形に血は流れていないんだ」とシンカが言うと、モアは慌てて訂正した。「いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。シンカは別だ。その…フツウの人とは少し違う気がする。シンカのことはちゃんと温かい人間だと見てるから。機械に見えているのは私と全く関わりのない人間。変なこと言わせてしまったね」
「モアが申し訳ないって謝る言葉をはくと何だか気持ちが悪いよ」
モアはシンカの頭をポンッと叩くと、言った。「訂正する必要なかったかも。あんたは自分が思っているほどデリカシーっていうもんがないみたい」
シンカはふてくされて言った。
「いや。モアと比べれば誰だってデリカシーある人間に見えると思う」
モアは何も言い返さなかったが、鋭い目つきでにらみ返してきた。これ以上余計なことを喋ると舌を引っこ抜かれそうな気がしたので、シンカはそそくさと教室に戻った。