ディナーの代償
シンカは顔を歪めながらモアの背中を見つめていた。
「お嬢ちゃん。今日はじめて?」青果店のおじさんがモアに話しかける声が聞こえた。
「茄子色のトマトを買いに来ました」
モアはシンカに貰ったお金を掌に載せると、ジャラジャラといわせながら、シンカに目配せした。しかし、彼女のご満悦な憎たらしい顔を見る余裕などシンカにはなかった。誰かに頭をキリキリと締め上げられているようだと、シンカは思った。
「ちょっと! あんた大丈夫? 相当顔色悪いよ」モアの掌には水滴のついた新鮮な茄子色トマトがのっていた。いや、心配することないよとシンカは笑みを浮かべて言った。
「きっとよくある偏頭痛だよ。帰って薬でも飲めば、すぐ治るさ」とシンカ。
すかさず青果店のおじさんが「おれの新鮮な野菜に毒でも入ってたかもしれないな」と口を挟むと、シンカの肩を叩いた。「とっとと家に帰ることだ」青果店のおじさんはシンカの手にキュウリを握らせた。「これはおまけだ。おれの野菜のせいにされては困るからな」
シンカはそのままキュウリをかじると、ふふっと笑った。「これもおじさんの野菜じゃないか」
「それはおれの自慢の野菜だが、いつもお前が買っていたトマトはおれのじゃない」
「本当に?」シンカは目を丸くした。「ああ。仕入れたものだ。でも不味かった。だから今日ので最後だ!」
「嘘。これが不味いわけない」モアは不安になって一口かじった。やっぱり美味しいとモアはつぶやいた。
夜中の商店街は静まりかえっていた。「これが今日の晩ご飯か」とつぶやくモアはその質素なディナーに少しも悲しみを感じていなかった。彼女の目がキラキラと輝いているように見えた。「だいぶ収まったよ」とシンカが言うと、彼女はため息をついた。「本当に大丈夫なの? 歩いて帰れるの? 途中で倒れられても私はあんたを負ぶっていく体力はないからね」
もう日をまたぐ時間帯にさしかかっていたのだ。弱音を吐いている時間はなかった。だが、痛みはますます増していた。頭痛が治まった? それは嘘だ。
シンカの顔色を見て、モアは少し休もうと言った。なんとか商店街は抜けたものの、河川敷にたどり着いたところでバテてしまった。土手に腰を下ろしていると、電車が橋を渡っていくのが見えた。土手から見える景色に目をとめるものは他になかった。
「モアは信じないかもしれないけど」モアは何だ、とシンカを見た。
「怖いって感情がおれがおれとして生きている数少ない感情なんだ。それが無くなれば、おれはおれじゃなくなる気がする」シンカは頭痛が治まっていることに気づいた。もう理由は分かっていた。モアの手に握られた茄子色のトマト。
「あんた誰?」モアは突然尋常ではない殺気をもって声を発した。モアはシンカの方を向いていたが、彼に発せられたのではない。シンカの背後に見知らぬ男が立っていた。いつの間に? シンカは顔を上げてモアを見た。
「あんた耳ついてるの? 誰って聞いたんだけど、聞こえたのなら答えてよ、お兄さん」モアはとっさに腕を上げて構えた。男は言った。「私も言ったはずだ。半端なことをすれば、容赦しないとね。聞かなかったのは君のほうだよ、シンカ。だからわざわざこうして出向いてやっているわけじゃないか」
男は大ぶりに腕を振り回し、モアの横腹に拳をたたき込んだ。
「私はシンカじゃない。モアだ」モアは呻きながら言うと、前に踏み込みながら男の顔面へと右足をたたき込んだ。男はかろうじて腕で防いだもののよろけていたので、モアとシンカはさっさとその場から駆けだした。「おい。あいつはあんたの知り合いか?」
モアはシンカの肩を担ぎ、後ろを振り返ったが、闇に紛れて何も見えなかった。
「あんなやつ知らないさ」とシンカ。もう大丈夫だ、頭が冴えてきたと言うとシンカはため息をついた。
そのとき、銃声が聞こえた。シンカの肩から血がこぼれた。「お前達二人は社会から追放されたんだよ!」
男の声が遠くから聞こえてきた。
「まるでアダムとイブのようだ」とシンカがつぶやくとモアはスカートを破り、シンカの傷口を止血した。
シンカはかすれた声で言った。「茄子色のトマトを食べたせいで、この安全な社会に住む権利を奪われてしまった」
「黙ってろ!」モアは叫ぶと、再びシンカの肩を担いだ。重い…。モアは足をくじき、バランスを崩すと土手から転げ落ちた。幸いと方々に生えた雑草が身を隠してくれた。ズキズキと痛む足を見ると、赤く腫れていた。ふっと銃声のした方を見る間もなく、次の銃弾が目の前の雑草を刈り取っていった。
「あいつの銃を奪え」とシンカは言うが、そんな簡単に言うなと心中で叫んだ。
「そのトマトを食べるんだ」モアは眉をひそめた。「なんだって?」
「そのトマトはフツウのトマトじゃない。人を人として特別な存在に変えてくれるものなんだ。だけどそんなに長くは効かない」
こいつの言うことを信じろって? しかし、他に頼るものは何もなかった。モアはかぶりついた。
「おれが注意を引く」シンカは草むらから飛び出すと、叫んだ。「こっちだ! おれを見ろ!」シンカは男が顔をこちらに向けたのを見ると、携帯のライトを照射した。そして銃声。モアは男に隙ができたのを見て、足下に掴みかかりタックルした。モアと男が河川と反対側に転がっていくと、また銃声が聞こえた。
「モア!」シンカは撃たれた腹部を押さえながら焦燥に駆られ、土手を駆け上がった。そこに一人モアが立っているのを見ると、安堵の息がこぼれた。モアは言った。「大丈夫」
「あいつは?」モアは首を振った。荒い息をつく彼女の顔に疲労の色が浮かんでいるのが見えた。
「私たちどうするの? これから。家に帰る?」シンカは自分の体とモアの体を見下ろして言った。
「これじゃ帰れないよな。それに…おれたちにはもう帰る場所はないんじゃないかな」
「シンカにはきっと帰れる場所があると思う。最後は私がやったことだから、シンカが気にする必要はないよ」
「モアは彼が何者か知らないから」
「そうよ。知らないし、知りたくもない」モアはシンカに詰め寄った。
「まだ私が怖い?」そうさ、怖いんだ。シンカははっと思いだしたように言った。「おれは臆病者だ。臆病じゃない自分なんか知らない。前向きで積極的な自分なんか知らない。おれは何をするにしても怖くて手を出せない人間なんだ。それがおれなんだ」
シンカは言った。「あの男の言う通り。おれは半端物なんだ」シンカがモアを置いてどこかへと歩き去って行く。モアはシンカの背中を追いかけた。「それでもいいじゃん」二人の影は闇に消えていった。




