洩別1
洩別
救急車内に運ばれた美咲はすぐに手当が開始されていた。
口元に酸素マスクを当てられ、刺された腹部には、応急用のガーゼがテープで固定されていた。
滝沢はストレッチャーに横たわる美咲の反対側のイスに座らされ、美咲の青ざめた表情を見守っていた。
「三島さん、血液考査試験でマイナスが出ました」
隊員の一人が叫んだ。
「何!」
三島と呼ばれた男の顔色が変わった。
「マイナスって?」
滝沢が尋ねた。
「彼女の血液型ですよ。RHマイナス。貴方も聞いた事ぐらいあるでしょう」
「それじゃ、美咲はどうなるんですか?」
「今の時点で彼女に輸血は出来ません。おい、阿部」
「はい」
「本部に大至急A型のマイナスの血液の置いてある病院を探してもらえ。それから血液センターも当たれ!」
「はい」
阿部隊員が無線で状況を話し始めた。
「くそ!」
三島が唇を噛んだ。
「滝沢さん。今、彼女に輸血出来ないのはかなり厳しい状況です。彼女の御家族御存知ですか?」
滝沢が小さく首を振った。
「あっ!」
すぐに美咲の携帯の事を思い出して、滝沢はポケットからそれを取り出した。
「美咲の携帯です」
三島が携帯を受け取り、ディスプレイを開いた。
「さっき父親から電話が入っていました」
「失礼ですが滝沢さん。彼女の父親とは面識はありますか?」
滝沢が無言のまま首を振った。
「そうですか」
三島が着信履歴から美咲の父へと発信した。
呼び出し音を聞きながら、三島が滝沢の顔を見つめている。
三島の視線が突然動いた。
「夜分に失礼致します。こちら三咲市救急隊三島と申します。藤本美咲様の御父様でいらっしゃいますか?」
『はい』
「実はお嬢様がある事件に巻き込まれまして、重傷を負い現在病院へと搬送中でございます」
『事件って、一体?』
「三島さん。ありました」
無線で対応していた阿部が突然叫んだ。
「香常市の城賀大病院です」
阿部のその言葉を聞いて三島の表情が落胆の色に染まった。
「御父様。現在、御嬢様は非常に危険な状態でございます。御嬢様の血液を保有している病院まで必死に移動中ですが、その病院に着くまではどうしても一時間近く掛かってしまいます」
『ちょっと待って下さい。一体何がどうなっているんですか?』
「御嬢様は暴漢に襲われて重体。一刻も早く輸血をしなければなりませんが、御嬢様と同じ血液が近くの病院にないのです」
三島の説明を聞いて、ようやく父親は状況を理解したようだった。
『娘を助けて下さい。お願いします!』
「我々も全力は尽くしますが、覚悟だけはしておいて下さい」
三島にとってもそれを口にするには辛い言葉であった。しかし、救急隊員である以上、事態を冷静に家族に伝える義務がある。
自分以上に家族は辛いのだ。そんな一時の干渉などに浸っている状況ではない。
「とても、喋れるような状態ではないと思いますが、今御嬢様に代わります」
三島が持っている携帯電話を美咲の耳に当てた。
『美咲! しっかりするんだ。すぐにお父さんもそっちに向かうから、頑張るんだ!』
美咲の携帯から微かに洩れる初めて聞く父親の悲痛な叫びに、滝沢の心が震えた。
「ごめん……ね。お父……さん」
美咲の瞳から涙が溢れ落ちた。
『美咲!』
「すみません、御父様。処置がありますので一度電話を切らせていただきます」
そう言って三島が携帯を切った。
その様子を黙って見ていた滝沢が、フラフラっと美咲の元へと歩み寄りその手を握り締めた。
その瞬間、滝沢の背筋に悪寒が走った。
握った美咲の手があまりにも冷たく感じたためであった。
しかし、美咲はそれでも滝沢の手を弱々しい力で握り替えしてきた。
滝沢の瞳からも涙が落ちていた。
「馨ちゃん」
酸素マスクをしていても美咲の呼吸は苦しそうであった。
「美咲!」
「三島さん! 血圧が下がってます。82の45!」
「くそ! 持たないのか。阿部、強心剤の準備だ」
「しかし、三島さん。医者の指示もなく……」
「構わん。責任は俺が取る。ジゴシン2アンプルだ」
「はい」
阿部が注射器に薬液を詰め始めた。
血圧計のアラームが車内に鳴り響いた。
「三島さん、ジゴシン2アンプルです」
阿部が三島に注射器を手渡した。
「二十二時三分。ジゴシン2アンプル。左上腕に筋注。血圧64の35。心拍53」
三島が手早く美咲の左腕に注射を刺した。
「藤本さん! 今心臓の薬を注射しました。わかりますか?」
美咲が目を閉じたまま小さく頷いた。
「病院まであと三十分です。気をしっかり持って下さい。滝沢さん、何でもいいから彼女に話しかけて!」
滝沢が握っている手に力を込めた。
「美咲、もうちょっとで病院だから頑張れ!」
「血圧72の41。心拍61です」
阿部が血圧計を見つめながらデーターをカルテに記入してゆく。
「そうだ! 怪我が治ったらまたG芸大に一緒に行こう。今度はスミス先生に会って美咲のこの間描いた『天使の夢』の絵を見て貰おう」
美咲の閉じられた瞼が薄く開かれた。
「俺は、まだ美咲に何もして上げられていないんだ。頼むよ、美咲……」
滝沢が握った美咲の手を自分の頬に当てた。
「血圧51の34。心拍43」
美咲の微かに痙攣していた瞼がゆっくりと閉じられた。
「駄目だ! 美咲。目を開けて俺を見ろ!」
「血圧、心拍共に測定できません!」
「美咲!」
滝沢が叫んだ。
「くそ!」
三島が両手を美咲の胸に当ててマッサージを開始した。
「血圧測定不能、心拍18」
全体重を両手のにかけて、三島は汗だくになりながら心臓マッサージを続けた。
滝沢は美咲の手を握りしめただ泣く事しか出来なかった。
そして、車が城賀大病院に着いたのはそれから十五分後の事だった。
しかし、病院に着いても美咲に輸血される事はなく、ただ死亡が確認されただけだった。