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第4章 パーシャのお手柄


その朝、ヴォルスキー家の書斎で起こった事件は、事件と呼ぶには、少々小さかった。


父「……誰か、昨夜ここへ入ったか?」

ダーリャ「書斎へ、でございますか?」

父「ああ」


父は机の前に立っていた。

引き出しが、ほんの少し開いている。

鍵を掛けるほど重要なものを入れている場所ではない。

だが、普段ならきちんと閉じている。

机の上にも、これといって変わったところはない。

書類もある。

手紙もある。

小さな箱もそのまま。

何か盗まれた形跡はない。

だからこそ、妙だった。


父「私が閉め忘れたのなら、それで終わりなのだが」

セルゲイ「父上が?」

父「何だ」

セルゲイ「いえ。几帳面な父上が引き出しを開けたまま寝るかな、と」

父「私だって忘れることくらいある」

セルゲイ「珍しいですが」

父「お前は朝から私に喧嘩を売っているのか」

セルゲイ「まさか」


その横で、ミハイルは机をのぞき込んだ。


ミハイル「本当に何もなくなってないんですか?」

父「今のところはな」

ミハイル「じゃあ誰かが入ったとしても、何をしに?」

セルゲイ「手紙を読んだとか」

父「何のためにだ」

セルゲイ「それは知りませんよ」

父「お前はすぐ話を大きくする」

ダーリャ「セルゲイ様」

セルゲイ「はい?」

ダーリャ「旦那様がお困りになりますから、まだ陰謀にするのはお待ちください」

セルゲイ「まだ?」

ダーリャ「もし陰謀だった時に考えればよろしいかと」

セルゲイ「ダーリャまでひどいな」


三人のメイドも書斎に集まっていた。

ダーリャ。

パーシャ。

そしてもう一人。

大騒ぎではない。

ただ、

「昨夜、誰かが書斎に入ったらしい」

という程度の小さな違和感。

それでも使用人側からすれば、確認しておく必要はある。


ダーリャ「昨夜、この辺りを最後に片付けたのは?」

もう一人のメイド「私です。書斎そのものには入りませんでしたけれど、廊下は確認しました」

ダーリャ「何時頃?」

もう一人のメイド「客間を片付けたあとですから……十時を少し過ぎたくらいかと」

父「その時、扉は?」

もう一人のメイド「閉まっていました」

セルゲイ「じゃあ、その後か」

ミハイル「だからまだ誰か入ったって決まってないだろ」

セルゲイ「お前は夢がないな」

ミハイル「何の夢だよ」


パーシャは、その間ほとんど喋らなかった。

机。

引き出し。

床。

燭台。

いつもの書斎を見回している。


パーシャ「……あ」

ミハイル「どうした?」


パーシャは机の横にしゃがんだ。

床の隅。

絨毯の端に、小さな塊が付着している。


パーシャ「蝋ですね」

セルゲイ「蝋?」

パーシャ「はい」


白っぽい蝋の小さな滴。

誰かが燭台を持って歩き、ここで一滴だけ落としたように見える。


セルゲイ「ほら。やっぱり誰か夜中に入ったんだ」

ミハイル「だから決めつけるなって」

父「この部屋の蝋燭から落ちたのではないのか」

パーシャ「……たぶん違います」


全員がパーシャを見た。


父「なぜ分かる?」


パーシャは蝋の欠片を少しだけ指先で触った。

匂いを確かめる。


パーシャ「旦那様の書斎で普段使っている蜜蝋じゃありません」

父「違う?」

パーシャ「はい。ここの蝋燭はもう少し黄色いです。それに、香りもほとんどありません」


挿絵(By みてみん)


ダーリャが近づいてきた。


ダーリャ「確かにそうね」

セルゲイ「蝋燭なんて全部同じじゃないのか?」


三人のメイドが同時にセルゲイを見た。


セルゲイ「……違うんですね」

ダーリャ「違います」

パーシャ「これ、昨夜の客間で使ったものじゃないでしょうか」

ダーリャ「ああ」


ダーリャが納得した。


ダーリャ「お客様用に出した方ね」

父「客間?」

もう一人のメイド「白く精製した蜜蝋のものです。少し香りも付けてあります」

パーシャ「これと同じです」

セルゲイ「じゃあ、昨夜客間にいた誰かが、その蝋燭を持ってここへ来た?」

ミハイル「かなり絞れたな」

父「昨夜、客間を使ったのは?」

ダーリャ「夕食後にお客様がお二人。それから……」


少し考える。


ダーリャ「セルゲイ様もいらっしゃいましたね」

セルゲイ「俺?」


ミハイルがセルゲイを見る。

父も見る。

パーシャも見る。


セルゲイ「いやいや、待ってください」

父「何を待つ」

セルゲイ「俺が父上の書斎に忍び込んだと?」

ミハイル「誰も忍び込んだとは言ってない」

セルゲイ「目が言ってる」

父「昨夜、客間の燭台を持ったか?」

セルゲイ「……」


セルゲイが考える。


セルゲイ「持った、かな」

父「かな?」

セルゲイ「客人を見送ったあと、暗かったから一本借りて……」


そこでセルゲイの表情が変わった。


セルゲイ「あ」

ミハイル「あ?」

セルゲイ「思い出した」

父「何をだ」

セルゲイ「父上から借りていた本を返しに来ました」


沈黙。


父「……本?」

セルゲイ「はい」


セルゲイが引き出しを開ける。

中から一冊の本を取り出す。


セルゲイ「これです」

父「そこに入れたのか」

セルゲイ「机の上に置こうと思ったんですが、手紙が積んであったので……確か、この引き出しに」

ミハイル「閉め忘れた?」

セルゲイ「……らしい」

父「お前だったのか」

セルゲイ「申し訳ありません」

父「朝から人騒がせな」

セルゲイ「父上が騒ぎ始めたんでしょう」

父「何だと?」

ミハイル「まあまあ」

ダーリャ「これで解決ですね」

セルゲイ「しかし」


セルゲイはパーシャを見る。


セルゲイ「よく蝋だけで分かったな」

パーシャ「毎日見ていますから」

セルゲイ「毎日?」

パーシャ「蝋燭も、燭台も、お部屋も」

ダーリャ「だから使用人がいるのでございます」

父「もっと言ってやれ」

セルゲイ「父上まで」


ミハイルが笑った。


◆


騒ぎが収まったあと。

三人のメイドは廊下へ出た。


ダーリャ「パーシャ、よく見ていたわね」

パーシャ「たまたまです」

もう一人のメイド「私は時間は覚えてましたけど、蝋までは見てませんでした」

パーシャ「でも、何時頃だったか覚えてたでしょ」

もう一人のメイド「それは仕事だから」

ダーリャ「パーシャも同じでしょう」

パーシャ「そうですけど」

ダーリャ「結局、三人で一つね」

もう一人のメイド「じゃあ、お手柄も三等分?」

パーシャ「それはちょっと……」

ダーリャ「欲が出たわね」


三人が笑った。


◆


午後。

家族がそろっていた。

父は本を読んでいる。

ミハイルは別の書類。

セルゲイは窓辺。

そして、


セルゲイ「そういえば」


ミハイルの肩が、ほんの少し動いた。


セルゲイ「この前、宮殿ですごい美人に会った」

父「またその話か」

セルゲイ「父上、まだ一回しかしてませんよ」

父「十分だ」

ミハイル「名前も知らないんだろ?」

セルゲイ「だから気になってるんだ」

ミハイル「諦めろよ」

セルゲイ「何でお前はそんなに冷たいんだ」

ミハイル「現実的なんだよ」

セルゲイ「いや、本当に妙なんだ」

父「何がだ」

セルゲイ「初めて会ったはずなのに、初めて会った気がしない」


パーシャは、少し離れたところで茶器を片付けていた。


セルゲイ「声もどこかで聞いたような気がする」

ミハイル「またそれか」

セルゲイ「それに、話してると妙に楽だった」

父「気が合ったのだろう」

セルゲイ「そうなんでしょうけど」


パーシャの手が、ほんの少し止まった。

宮殿。

見知らぬ美女。

名前を教えない。

聞き覚えのある声。

妙に話が合う。

何かが引っかかった。

だが、

まだ形にはならなかった。


◆


数日後。

メタモルフォーゼ舞踏会の日。

鏡の前にミハイルが座っていた。

パーシャが化粧をしている。


ミハイル「今日、ちょっと時間かかってない?」

パーシャ「そうですか?」

ミハイル「考え事してるだろ」

パーシャ「動かないでください」

ミハイル「はい」


頬。

目元。

眉。

唇。

鬘。

少しずつ、

いつものミハイルの顔が変わっていく。

そして、

鏡の中に、

若い貴婦人が現れた。

パーシャの手が止まった。

セルゲイの言葉が、

突然、

全部つながった。

宮殿。

上品な女性。

名前を教えない。

聞き覚えのある声。

話していて妙に気が合う。

そして、

あの日。

舞踏会が終わったあと、

ミハイルはドレス姿のまま、

ナターシャの忘れ物を取りに行った。


パーシャ「…………あ」

ミハイル「どうした?」


分かった。

セルゲイが宮殿で出会った謎の美女。

あれは、

ミハイルだ。


パーシャ「…………」


しかも。

セルゲイは、

本当に実の弟だと気づかなかった。

女性だと思った。

そのうえ、

かなり気に入っている。

パーシャは、

鏡の中のミハイルを見る。

今なら分かる。

兄が気づかなかった理由も。

化粧。

髪。

服。

姿勢。

レヴェランス。

声。

全部が合わさると、

知っている人間ですら、

一瞬では結びつかない。


パーシャ「……」


笑いそうになった。

同時に、

少し怖くもなった。

これは、

セルゲイに絶対言ってはいけない。

ミハイルにも、

今は言わない方が面白――

そこまで考えて、

パーシャは首を振った。


パーシャ「……いえ」

ミハイル「何?」

パーシャ「何でもないです」

ミハイル「本当?」

パーシャ「はい」

ミハイル「さっきから変だぞ」

パーシャ「目を閉じてください」

ミハイル「はいはい」


ミハイルが目を閉じる。

パーシャは、

ほんの少しだけ笑った。

そして何事もなかったように、

続きを始めた。

謎の美女の正体を知った者が、

この日、

一人だけ増えた。


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