第3章 最初の弟子
その男がカーテシー・クラブの部屋の前に立ってから、すでに五分ほど経っていた。
扉を叩こうとする。
やめる。
また手を上げる。
やめる。
廊下の向こうから人が来ると、何食わぬ顔で窓の外を見る。
通り過ぎる。
また扉を見る。
男の名は、アレクセイ・ペトロヴィチ・ズブコフ。
三十歳。
背は高すぎず低すぎず。
無駄な肉のない、細身ながら多少鍛えられた体つき。
顔立ちも悪くない。
普通の軍服か宮廷服を着て黙って立っていれば、それなりに格好のつく男だった。
ただし今は、ものすごく挙動不審だった。
ズブコフ「……」
再び手を上げる。
その瞬間。
扉が内側から開いた。
ミハイル「何してるんです?」
ズブコフ「うわっ!」
ミハイル「うわっ、て」
二人が見つめ合った。
ミハイル「さっきから人影が見えたり消えたりしてるんで、何かと思ったんですが」
ズブコフ「……」
ミハイル「何か御用ですか?」
ズブコフは少し黙った。
そして、周囲を確認した。
声を落とす。
ズブコフ「ここが、その……」
ミハイル「はい?」
ズブコフ「カーテシー・クラブとかいうところか」
ミハイル「一応」
ズブコフ「一応?」
ミハイル「正式名称じゃないので」
ズブコフ「では何というんだ」
ミハイル「特に決まってません」
ズブコフ「……」
ミハイル「だから一応、カーテシー・クラブです」
ズブコフは明らかに帰りたそうな顔をした。
ミハイル「入ります?」
ズブコフ「……入る」
ミハイル「どうぞ」
こうして、カーテシー・クラブ最初の一般練習生が、ようやく扉をくぐった。
◆
部屋の中には、ミハイルのほかにアレクサンドルとナターシャがいた。
少し離れたところでは、パーシャが衣装を畳んでいる。
壁際には鏡。
椅子。
化粧道具。
そして練習用として置かれた二着のドレス。
一着は黄色。
もう一着は、裾の長い黒いドレスだった。
ズブコフ「……帰っていいか」
ミハイル「まだ何もしてませんよ」
ズブコフ「いや、何となく分かった」
アレクサンドル「何がだ」
ズブコフ「ここがどういう場所なのか」
ナターシャ「自分で来たんでしょう?」
ズブコフ「そうだが」
ナターシャ「だったら座りなさいよ」
ズブコフ「……女性もいるのか」
ナターシャ「いるわよ」
ズブコフ「聞いてない」
ナターシャ「何を?」
アレクサンドル「ああ」
ズブコフ「何だ」
アレクサンドル「別に」
ナターシャ「まず事情を話してくれる?」
ズブコフは観念したように座った。
◆
数日前。
ズブコフは初めてメタモルフォーゼ舞踏会へ参加した。
結果から言えば、惨敗だった。
ズブコフ「……最初に言っておくが、俺は努力した」
ミハイル「はい」
ズブコフ「衣装もちゃんと用意した」
アレクサンドル「はい」
ズブコフ「鬘も化粧もした」
ナターシャ「それで?」
ズブコフ「歩けなかった」
ミハイル「…………」
ズブコフ「笑うな」
ミハイル「笑ってません」
ズブコフ「今、口元が動いた」
最初に裾を踏んだ。
レヴェランスは高すぎたり低すぎたり。
スカートを持ち上げすぎた。
踊れば歩幅が合わない。
そして何より、周囲には普通にこなしている男が大勢いた。
ズブコフ「五十過ぎの男が俺より上手かった」
ミハイル「そういう人もいます」
ズブコフ「俺より体格のいい軍人まで普通にできていた」
アレクサンドル「練習してるからな」
ズブコフ「そう。それだ」
ズブコフ「皆、どこで練習してるんだ」
噂を聞いて、ここへ来た。
次の招待は十日後。
ナターシャ「じゃあ見せて」
ズブコフ「何を」
ナターシャ「レヴェランス」
三秒後。
ナターシャ「止めて」
ズブコフ「何だ」
ナターシャ「全部違う」
ズブコフ「全部?」
ナターシャ「全部」
◆
足。
背中。
肩。
手。
顔。
全部直される。
そしてナターシャが、自分が教えようとした時。
ズブコフ「待て」
ナターシャ「何?」
ズブコフ「あなたが教えるのか」
ナターシャ「そのつもりだけど」
ズブコフ「女性だろう」
ナターシャ「そうね」
ズブコフ「それは困る」
ナターシャ「何が?」
ズブコフ「……見られたくない」
ナターシャ「本番では女の人と踊るのよ?」
ズブコフ「本番は本番だ」
ナターシャ「練習は?」
ズブコフ「練習は練習だ」
ナターシャ「全然分からない」
アレクサンドルが吹き出した。
パーシャ「男心でしょうか」
ミハイル「たぶん」
アレクサンドル「妙な乙女心にも見えるが」
ズブコフ「聞こえてるぞ」
結果、一番教えるのが上手そうなナターシャが、本人の希望で練習から外れた。
◆
さて。
教えることになった。
そこで初めて、ミハイルたちは気づいた。
自分たちは、普通の参加者を継続的に教えたことがない。
もちろん、まったく経験がないわけではない。
少し前、プロイセンの外交官ブラントを皆で特訓したことがある。
だが、あれは外交上の事情が絡んだ特殊案件だった。
期限も決まっていた。
何としてでも本番に間に合わせなければならない。
普通の練習生とは違う。
今回のズブコフは、誰かに命じられたわけではない。
自分が上手くなりたくて、自分の意思で来た。
つまり、これが本当の意味で、最初の弟子だった。
◆
ズブコフには黄色いドレス。
ミハイルは、見本を見せるため黒いドレス。
黄色いドレス姿のズブコフと、黒いドレス姿のミハイルが並ぶ。
ミハイル「まず歩きます」
ズブコフ「簡単そうにやるな」
ミハイル「慣れです」
ズブコフ「それが一番腹立つ」
それでもやる。
何度も。
何度も。
二日目。
歩行。
三日目。
レヴェランス。
アレクサンドル「肩に力が入りすぎ」
ズブコフ「抜いてる」
アレクサンドル「入ってる」
パーシャ「入ってます」
ズブコフ「三対一は卑怯だろう」
四日目。
パーシャ「今日は表情も」
ズブコフ「表情?」
パーシャ「怖いんです」
ズブコフ「誰が」
パーシャ「ズブコフ様が」
ズブコフ「そんなにか」
パーシャ「レヴェランスする時、戦に行くみたいな顔をなさいます」
ズブコフ「集中してるんだ」
パーシャ「もう少し穏やかに」
ズブコフ「難しい注文だな」
五日目。
ナターシャが扉から顔だけ出した。
ナターシャ「どう?」
ズブコフ「見ないでくれ」
ナターシャ「まだ駄目なの?」
ズブコフ「まだ駄目だ」
ナターシャ「本番は私もいるわよ!」
ズブコフ「その時は仕方ない!」
ナターシャ「納得いかない!」
◆
一週間。
完璧にはほど遠い。
だが、最初とは別人だった。
再び舞踏会。
歩ける。
裾を踏まない。
レヴェランスも、少し固いが崩れない。
以前笑っていた男が、小声で言った。
男「前よりだいぶマシじゃないか」
隣の男「誰かに習ったのか?」
ズブコフは聞こえないふりをした。
ほんの少しだけ、胸を張った。
◆
数日後。
ズブコフ「赴任が決まった」
突然だった。
別の領地へ行くことになる。
練習も終わり。
ズブコフ「本当に助かった」
ミハイル「まだ山ほど課題ありますよ」
ズブコフ「知ってる」
アレクサンドル「レヴェランスも固い」
ズブコフ「知ってる」
パーシャ「歩き方も戻ります」
ズブコフ「知ってる」
ナターシャ「私ならもっと早く仕上げたのに!」
ズブコフ「それも知ってる!」
皆が笑った。
ズブコフ「困ったことがあったら言ってくれ」
ミハイル「赴任先で?」
ズブコフ「ああ。今度は俺の番だ」
ミハイルは、その手を握った。
◆
数日後。
扉が叩かれた。
舞踏会でズブコフを見ていた男だった。
男「ここが……カーテシー・クラブというところですか」
ミハイル「一応」
男「一応?」
ミハイル「正式名称じゃないので」
男「では何というんです?」
ミハイル「特に決まってません」
同じ会話だった。
男が中へ入る。
壁には黄色いドレス。
隣には黒いドレス。
机には少し増えた化粧道具。
カーテシー・クラブは、この頃から少しずつ、本当の意味で「クラブ」になり始めた。
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