83.タイダル公国へ(5)
コンコン、と控えめなノックの音が聞こえた気がした。
シャイナがむにゃむにゃと起きようとすると、温かな手に抱き寄せられて「まだ寝ていろ」と囁かれる。
(まだ寝てていいんだぁ)
瞼が重たかったから嬉しい。
シャイナがうとうとしだすと、『まだ寝ていろ』と言った声がノックに返事をして扉が開く音がした。
「おはようございます。お湯をお持ち……すみません、一緒にお休みとは知らず、お邪魔をしました」
侍女らしき者の遠慮がちな声がする。
「構わない。彼女の朝食はこちらへ持ってきてくれ」
「承知いたしました。ご出発の馬車は遅らせますか?」
「いや、そのままでいい」
夢うつつにそんなやり取りが聞こえる。
やがて扉が閉まる音がして、ふわりと全身が包まれた。
「?」
この温かいものは何だろう。とても心地がいい。
シャイナはすりすりとそれに頭を寄せた。
すりすりしてから、これはなにかしら? と考える。
「…………」
温かく、適度にしっとりとしていて、柔らかいが弾力のあるそれ。
「…………」
シャイナはそろりと目を開けた。
画面上の肌色の割合がやたらと広い。
「起きたのか?」
いやに甘い声が降ってくる。
「…………」
顔を上げると物凄い近さで、とろとろ甘々のエスカリオットの顔があった。
「っ…………」
瞬時にシャイナの頭の中で昨晩のあれやこれやがリピートされる。
何度も甘く呼ばれたシャイナの名前に、何度も縋るように呼んだエスカリオットの名前。
(………………ひえぇぇ)
真っ赤になって俯いたシャイナは自分が素っ裸なのに気付いた。
「ひょえっ」
慌てて両腕で自分を隠そうとするが、素っ裸なので何の意味もなさない。
「今さらだろう」
そう声をかけられて再び目線を上げる。さっきは顔しか目に入らなかったけれど、そこにはシャイナとお揃いの素っ裸のエスカリオットが居た。
そのエスカリオットに抱き込まれているので、互いの肌がとても近い。
「ひゃあぁっ」
パニックになったシャイナは狼になろうとしたのだがーー
「狐にはなるなよ」
エスカリオットの腕に力が入り、耳元で低く囁かれて腰が砕けた。
「ひいいぃぃ」
獣化に集中出来なくて、情けない悲鳴をあげるしかなくなるシャイナ。
エスカリオットがくっくっと笑う。
「おはよう、シャイナ」
耳元でエスカリオットが囁いた。
「ひゃっ、耳元、ダメですう」
「知っている。昨日も散々責めたからな」
「っ…………」
シャイナの全身が真っ赤になって、プスプスと湯気が出だした。
「昨晩のシャイナも愛らしかったが、朝の光の中で見るシャイナも格別愛らしい」
これも耳に吹き込むように囁かれる。
「っ……っ!」
必死に身をよじるが、しっかり抱き込まれている為こちらも何の意味もなさなかった。頭が沸騰しそうだ。
「……これ以上は泣かせてしまうな」
シャイナのいっぱいいっぱいな様子を見てエスカリオットの腕が緩む。
シャイナはほっと息を吐き、エスカリオットから離れるとシーツにくるまった。
エスカリオットがシーツごしにシャイナの肩や背中を撫でる。妖しい手つきではないので、落ち着かせようとしてくれているみたいだ。
「湯が用意されているが、顔を洗うか? それとも服を着るか?」
「…………服を着たいですう」
シーツから顔だけ出してそう訴える。エスカリオットは枕元に畳んであったシャイナの寝巻きを取ると、自分はさっとズボンだけ履いた。
そうしてシーツにくるまったシャイナを抱き上げると、浴室へと向かう。
「エスカリオットさん!?」
びっくりしていると浴室の椅子へと降ろされた。
「直に朝食も運ばれてくる。恥ずかしいのだろう? ゆっくり着替えてから出てくればいい。シャワーも使いたければ使え」
エスカリオットはシャイナの頭をぽんぽんとして浴室から出ていった。
(優しい……)
美しいだけでなく優しくもあるシャイナの黒豹。
シャイナはじんわりと幸せを噛み締めながら、よたよたとシャワーを浴びて服を着た。
浴室から出てくると、既に朝食が運ばれてきていた。
「おはようございます」
とても遅くなってしまったが、朝の挨拶をしてからエスカリオットの向かいに座って朝食を食べだす。
「…………」
食べながらちらりと向かいのエスカリオットを見る。
ゆるく着崩されたシャツに、少々乱れた髪。目元は少し眠たげだが肌は艶めかしく光っていて、色気がムンムンしている。
(うわあ……)
シャイナはさっと目を伏せた。
(事後の色気がすごい)
絶対にシャイナよりも色気が溢れている。
これはもはや目の毒だ。
シャイナはあんまりエスカリオットを見ないようにして急いで食事を済ませると、自室に戻って出立の準備をした。
❋❋❋
来た時と同じく、公国の城の通用口にてシャイナ達はコーエンとイザベラの見送りを受けた。
イザベラと別れを惜しんだ後、コーエンがシャイナへと歩み寄る。
「お世話になりました」
シャイナがそう言うとコーエンは微笑んだ。
「こちらこそ、シャイナ殿には世話になりっぱなしだ。イザベラの事もそうだったし、エスカリオットの事も。特にエスカリオットには公国としても、友人としても何も出来なかったからね」
コーエンの瞳が暗い色を帯びる。
「……後ろにはハン国がいましたし、仕方ないですよ」
ハン国は戦利品としてエスカリオットを望み、剣闘士奴隷に落としたのだ。
そのエスカリオットを公国が助けるのは翻意を疑われる。手助けはもちろん、何かを残す事すら出来なかったはずだ。
(お家も、土地すらも残せなかったんだろうな)
シャイナは小さな広場になっていたエスカリオットの実家跡を思い出す。
コーエンに出来たのは、たまにエスカリオットの近況を調べるくらいだったのだろう。
シャイナがコーエンの立場だったらと思うと胸が苦しい。
「今回も、豪華なお土産くらいは持たせてあげたかったんだけど、君達を囲おうとしていると勘ぐられても困るから……ごめんね」
「護衛料をハン国から貰うので気にしないでください。出来るだけふっかけてやりますよ」
シャイナの言葉にコーエンがふっと笑う。
「お土産よりも、次にハン国に来る事があれば、我が家に顔を出してくれる方が嬉しいです。エスカリオットさんも喜びます」
「そうだね。イザベラと結婚した今はそれくらいならハン国王も目くじらは立てなさそうだ」
「ええ、お待ちしてますね」
「ふふ、エスカリオットの主人がシャイナ殿でよかったと心から思うよ。ありがとう」
そう言ったコーエンの声は温かくて、笑顔は心からのものだった。
シャイナまでほわりと温かくなる。
「シャイナ、そろそろ行こう」
エスカリオットから声がかかり、シャイナは馬車へと乗り込んだ。
馬車が動き出し、窓からイザベラへと手を振る。笑顔の大公夫妻はやがて遠のいた。
ゴトゴトゴトゴト……
馬車が揺れる。
ゴトゴトゴトゴト……
城下町を抜けて建物が途切れだし、車窓からは畑や牧草地が見えるようになってきた。
ゴトゴトゴトゴト……
そして狭い車内で隣同士に座るシャイナとエスカリオット。
(ダメだ、緊張してきた)
シャイナの手が汗でじんわりと湿ってきた。
一晩を過ごした翌日に、その相手と狭い馬車で二人きりというのはハードルが高いと思う。
(何か喋った方がいいよね?)
でも何を?
(て、手とか繋ぐのかな?)
いや、何で?
(あああっ、分からない)
かあっと顔が熱くなる。この葛藤の間、シャイナはずっと背筋を伸ばして前を向き固まっている。体にもじわりと汗をかいてきた。
(ダメだ……少し距離をとろう)
そう決めて、そーっと壁際へと寄って、窓に張りつこうとしたのだが、エスカリオットによって遠ざかろうとしていた手首が掴まれた。
「なぜ離れる?」
にっこりするエスカリオット。でもちょっと笑顔が怖い。
「そ、外でも見ようかなー、と」
だらだらと汗を流しながらシャイナは答えた。
「ほう?」
エスカリオットの笑顔の圧が増す。
「避けているのではなく?」
声が低い。
(……バレてる)
そう悟ったシャイナは正直に打ち明ける事にした。
「その、き、昨日の今日なので緊張するんです」
「……昨日とは?」
にっこりエスカリオット。
その笑顔はいつの間にか、怖いものから楽しそうなものに変わっていた。
「シャイナ、昨日とは?」
「……昨日の晩のあれですぅ」
赤くなって絞り出すように伝えると、満面の笑みで頭をよしよしされて意外な申し出をされた。
「狐になるか?」
「狼です。なっていいんですか?」
獣化してもいいなら、その方がありがたい。狼ならこんなに緊張せずに過ごせるはずだ。
シャイナが顔を輝かせて聞くと、エスカリオットはシャイナの髪の毛を一房とってからこう言った。
「なってくれた方が俺としてもありがたいな」
「どうして?」
エスカリオットはシャイナの髪に唇を寄せて、色っぽく笑った。
「そんな風に可愛く恥じらわれると、お前に悪戯するのを抑える自信がない」
「!」
ぼふんと真っ赤になったシャイナはすぐさま狼になった。
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しばらく後、
ゴトゴトと進む馬車内には、優雅に車窓を眺めるエスカリオットと、その膝の上で満足そうに身を丸める小さな白い狼が居た。
お読みいただきありがとうございます。
この二人が一線を越えるのはいいんだろうか……とドキドキしながら前話を投稿しましたが、いいねをたくさん貰えてほっとしました。
次話が最終話となります。よろしくお願いします。




