76.再会(5)
現れた男はゆっくりと部屋を見回し、エスカリオットに目を止めたので、シャイナはエスカリオットを庇うように一歩前に出た。
背後のエスカリオットの纏う気配が揺れる。シャイナがエスカリオットを見ると驚いた顔をしていて、その体が固まっていた。
「……?」
エスカリオットの様子を不審に思い、シャイナは侵入者の男へと視線を戻す。
男が身に付けているものは礼装でかなり豪華だ。フロックコートは金糸や銀糸の細かな刺繍が入り、ボタンには紋が入っていて相当高い身分である事が分かる。そして金髪に赤い瞳。赤い瞳は珍しい。
(そういえば、旧タイダルの王族って目が赤いんじゃなかったっけ。保持する為に近親婚を繰り返して、そのせいで人格崩壊者が多いとか……)
シャイナがそんな事を考えていると侵入者は口を開いた。
「イザベラから聞いてはいたが、本当にサンダル姿の君が見られるとは」
その視線はエスカリオットに向いたままで、“君”はエスカリオットの事のようだ。
穏やかで優しげな声には少し笑みが含まれている。
エスカリオットはシャイナに買われてからは、ずっと黒シャツ綿パンにサンダル姿である。
男はそんなエスカリオットに目を細めた。
旧タイダル国の王族と同じ瞳の色に、発せられたイザベラの名前。さらにエスカリオットへの気安い態度。
「!」
シャイナは現れた男の正体を知った。
コーエン・タイダル。旧タイダル国の第四王子で現在の大公だ。
コーエンは騎士時代のエスカリオットが忠誠を誓っていた相手でもある。
全身が粟立つ。シャイナはばっとエスカリオットを振り返った。
固まっていたエスカリオットは、やがて片足を引いて身を屈めた。
「お久しぶりです。大公閣下」
シャイナの美しい黒豹は静かにそれだけ言って目を伏せる。
「…………」
「…………」
二人の間に流れる沈黙。
(えっ、終わり?)
シャイナは唖然としてエスカリオットとコーエンを見比べた。
コーエンは、エスカリオットがかつて本気で忠誠を誓っていた相手のはずだ。戦争に負け、戦勝国であるハン国からの要望によりエスカリオットは戦利品としてハン国に送られた。
二人の仲は無理矢理引き裂かれたのだ。
そんな二人の久しぶりの対面なのに、あっさりし過ぎではないだろうか。
ウェアウルフであるシャイナには、騎士の忠義や主従関係への馴染みは薄い。ラシーンにも王家は存在するが、狼の戦士達は王家に忠誠を誓っている訳ではない。
ウェアウルフは一族全員が家族なので、王家も家族だ。彼らの危機はもちろん一族の危機であるが、それは王家に限らず一族全員に言える。古い血が濃い王家の者達は狼になると殊更大きく、彼らへの憧れや尊敬はあるが忠義はない。
だからシャイナには騎士の忠誠にピンとはこないが、それでも特別なものなのだという事は分かる。
(あなたの正義が私の正義、だったのでは? もっと感動の再会になる所なんじゃないのかな)
跪いて、顔を見れた事に男泣きするとかしないのだろうか。
(男泣きは……ないか)
感激して滂沱の涙を流すエスカリオットは想像できない。
「あなたがシャイナ殿だろうか。ご挨拶が後になり申し訳ない。私はタイダル公国のコーエン・タイダルだ」
そこでコーエンがシャイナに向き直り、シャイナは慌てて返事をした。
「ふわっ、はい!」
「エスカリオットとは幼い頃からの縁なんだ。懐かしくてついあなたを後回しにしてしまった」
エスカリオットは現在は奴隷の身である。そしてシャイナはその主人だ。コーエンは主人を差し置いて先にエスカリオットに声をかけた非礼を詫びていた。
「とっ、ととととんでもないです」
シャイナの緊張が高まる。
コーエンはシャイナの美しく愛しい黒豹が剣を捧げていた相手なのだ。
感覚的にはエスカリオットの兄や父に対面している気分になる。粗相があってはならない。
「古い友人がこうして穏やかに過ごしていているようで嬉しい。エスカリオットが闘技場から売りに出されて、再び人に買われたと聞いた時は暗澹たる気持ちだったのだが」
「もしかして買うつもりでしたか?」
自分はとてつもない邪魔をしてしまったのでは、とシャイナは青くなった。
コーエンは寂しげに首を振った。
「……いや。タイダル公国がエスカリオットを買う訳にはいかない。ハン国王が黙っていないからね。剣闘士奴隷の間も逐一様子を調べてはいたけど、指を咥えて見ているだけだった、すまない」
最後の謝罪はエスカリオットへと向けられた。
「閣下が気になさる事ではありません」
「あんなにも自分の無力を嘆いた事はない。買ったのがご婦人だと知った時は、ついに愛玩奴隷になってしまうのかと絶望もした」
コーエンの瞳が暗く陰る。
シャイナは背中がヒヤリとした。まさかコーエンまで、エスカリオットがシャイナの情夫だと思っていたのだろうか。
エスカリオットの事を気にかけていたのなら、情夫の噂にも触れたはずだ。
「あの、変な噂を聞いたかもしれませんが、それは誤解です」
エスカリオットにしてきた数々の束縛を自覚した今、当時のシャイナは惚れた男を金で買って首輪と義手で縛っていた相当にヤバい女ではあったと思うが、情夫として扱ってはいない。断じてしてない。
「ああ、イザベラから話を聞くまでは誤解していた。何とか自由の身に出来ないか、とも考えていたよ」
“イザベラ”と名前を呼んだ一瞬だけ、コーエンの瞳の色が柔らかくなる。
「それならよかった」
「本当に早めに知れてよかったよ。秘密裏に少々強引に解放する予定だったからね。そして、これは伝えておきたいのだが、もちろんこれからもそうする事は出来る」
シャイナへにっこりするコーエン。その笑顔が黒くなる。
そこには確実に、これから先、エスカリオットを不幸にするような事があれば容赦しないぞ、という脅しが含まれていると感じられた。
愛が重たいタイプだろうか。
(エスカリオットさんに対する想いが深そうだな、怖い)
自分の事は棚に上げてちょっと引くシャイナ。
「……了解です」
「これからも私のエスカリオットをよろしく頼むよ。シャイナ殿は素晴らしい魔法使いだと聞いている。安心して任せられそうだ」
「今は、私のエスカリオットさんですう」
黒い笑顔や重たそうな愛は怖いし、エスカリオットの大切な人ではあるが、“私のエスカリオット”は聞き捨てならない。シャイナは頑張って主張した。
「独占欲もあるのか、いいね。そういえばウェアウルフとも聞いたな。エスカリオットは生への執着が希薄だから少し縛るくらいがいい」
爽やかな笑顔で告げてくるコーエン。何だか癖のある人かもしれないぞ、とシャイナは思った。
コーエンに対して、エスカリオットの肉親に対面しているような緊張はなくなってきたが、別の種類の緊張が湧いてくる。
「エスカリオットさん、大公閣下はいつもこんな感じなんですか?」
不安そうにエスカリオットに聞くと、エスカリオットが頷く。
「ああ、閣下はこういう一面もある」
「ばっちり黒い感じがしますよ。イザベラさんには穏やかで優しいって言ってたじゃないですか……」
「庇護すべき者にはそうだ」
どうやらシャイナはコーエンの庇護対象ではないらしい。若干ライバル視されている気もする。
「エスカリオット、閣下なんて他人行儀は嫌だな。昔のようにコーエンと」
「昔は“殿下”でしたよ、閣下。お名前を呼び捨てにした事はありません」
「残念、引っ掛からないか」
「引っ掛かる訳ないでしょう。ところでここへはイザベラ嬢に渡していた魔法陣で来られましたか?」
エスカリオットの問いにシャイナはコーエンがここに現れた手段に思い当たった。
以前シャイナは、公国に嫁入り前の不安そうなイザベラにジュバクレイの布に描いた移動の魔法陣を渡している。魔石も組み込んで、言葉を紡ぐだけでシャイナの店に来れるようにしてあったものだ。
「あー、なるほど、あれを使ったんですね!」
「そうだよ」
「あの……それ、イザベラ嬢から無理矢理奪ってはないですよね?」
心配になってそう聞くと、コーエンは意味ありげに微笑む。
「今回はね」
「今回は」
「最初に布に気付いた時は、こっそり奪って少し本気で事情を聞いた」
「うわあ……イザベラ嬢は大丈夫でしたか?」
この黒い笑顔の本気の事情聴取は怖そうだ。
「泣かせてしまった」
「最低」
「明らかに効力のありそうな移動の魔法陣を隠し持たれていたんだ、仕方ないだろう。友好の為に来てくれたとはいえ、ハン国の女性だし警戒はする」
「それはそうでしょうけど」
「泣きながらシャイナ殿とエスカリオットについて話しだして、あの時はとても驚いた。ゆっくり全部聞いて、エスカリオットの状況を知ったんだ。イザベラには泣かせた事を謝って、その後はお互いに近付けたと思う。私達には微妙な距離があったからね」
コーエンの瞳が再び柔らかくなる。
イザベラはコーエンにとって、心安らぐ相手であるらしい。
シャイナはほっとした。
完全なる政略結婚だったけれどそれなりに上手くいっていそうだ。イザベラはいい子だったので幸せになっててもらいたい。
「今回は事情が事情だったから、イザベラが進んで使ってくれと差し出してきたんだ」
「事情? 何かあったんですか?」
聞き返しながらシャイナは、こんな所に公国のトップが一人で現れているのは異常だと気付く。伴を一人もつれずに他国へ、しかも元敵国へ単身でやって来るなんて無謀だ、何か理由があるはずだ。
まさかエスカリオットに会いたかった、とかではないだろう。
「それは……話すと巻き込む事になるから止めておこう。そして図々しいのは承知だが、出来れば私を城まで送ってほしい。ハン国王に会って話す事があるんだ。門までいけば正装してきたし、この瞳の色があるから何とかなる」
「もしかしたらですけど、テロとか独立関連ですか?」
シャイナがそろりと聞くとコーエンが目を見開く。
「お一人でハン国の城へ向かうという事は、公国は加担してないんですよね?」
「……シャイナ殿はなぜそんなに詳しいのかな?」
コーエンの目がすっと冷えた。
「私とエスカリオットさんは、もう巻き込まれ済みだからです」
シャイナはコーエンに本日の拉致についてと、これから城への迎えが来る事を伝えた。




