46.親愛のハグ
シャイナ視点に戻ります。
「シャイナ、くれぐれもエスカリオットさんに迷惑かけちゃダメよ」
実家の玄関先で、母のエイミが何度目か分からない注意をシャイナにしてきた。
里帰りの一週間も終わり、今日、シャイナとエスカリオットはハン国へと戻る。馬に荷物を積み、ご近所への挨拶も済ました。
後は出立するだけだ。
「母さん、私はもう大人で、エスカリオットさんの雇い主よ?迷惑なんてかけてません」
むしろ、衣食住を保障し、仕事の世話までしているのだ。
庇護しているのだぞ、とシャイナは思う。
「でもシャイナ、何と言ってもエスカリオットさんはあなたより年上なんだし、いろいろ我慢したり、飲み込んでいる部分があると思うのよ。シャイナは無意識に甘えたり、そくば……頼ったりしていると思うの。ちゃんとエスカリオットさんの気持ちも考えてあげて、気を付けるのよ」
む、何だその言い分は。
確かに、かなり年上ではあるけれど、エスカリオットさんが我慢している様子はないぞ、むしろ伸び伸び過ごしているぞ。
「そうだよ、シャイナ。特に、ウェアウルフでない異性は、こちらの出方に戸惑う事もあるからね、相手の事を思いやるようにしなさい。
エイダさんだったかな?近所のお世話になってるお姉さんに一度、相談するんだよ」
父のマイルズも一緒になって心配してくる。
「父さんまで、大丈夫ですう」
「エスカリオットさん、何かあればいつでも私達に相談してね。シャイナのこと、よろしくお願いします」
むくれるシャイナを無視して、エイミはエスカリオットの手を取るとそっと握って強い眼差しをエスカリオットに向ける。
「母さん?エスカリオットさんに勝手に触らないで」
母相手にもピリつくシャイナだ。
「シャイナ、そういう所よ」
心配そうなエイミが手を解く。
「エスカリオットさん、行きますよ!」
シャイナとエスカリオットは馬に乗り、シャイナの実家を後にした。
***
そこから、4日かけて国境の森を抜けた。
ハン国側の検問所を通過し、国境の町に入る。ここまで来てしまえば、後は移動の魔方陣で自宅に帰れるが、距離が遠すぎると変な場所に移動する可能性もあるので、念のためにそこから更に半日ほど馬を駆ってから、シャイナは移動の魔方陣を使った。
「移動の扉よ、開け」
言葉を紡ぎ、いつもの光と歪みに包まれる。
そして、数秒後、シャイナとエスカリオットは王都のシャイナの薬草店2階の自宅のダイニングの隅に降り立った。
懐かしの我が家。
2ヶ月ぶりくらいだろうか。
留守と店番をお願いしていたエイダが、時折窓くらいは開けてくれていただろうが、家の中は締め切っていた部屋特有のむっとした空気が漂っている。
それでも、心落ち着く我が家だ。
「ふあー、ただいまあ」
シャイナはむっとしている部屋の空気を吸い込む。
まずは換気をしなくては、と足を踏み出そうとすると、後ろからふわりとエスカリオットに抱きしめられた。
「ただいま、シャイナ」
「えっ、ちょっと、エスカリオットさん?」
抱きしめられて慌てるシャイナだが、エスカリオットの腕は柔らかく回されている程度で振りほどく程でもないし、ここでエイミとマイルズの“エスカリオットを思いやれ”という別れ際の注意も思いだす。
大人として、雇い主としてエスカリオットを気遣わなくては、と平静を装うシャイナ。
大丈夫だ、落ち着け、こういうの前にもあった。
王宮からの呼び出しの帰りにも柔らかく抱き締められている、あの時はエスカリオットはシャイナを心配していたみたいで、ドキドキすると伝えるとちゃんとすぐに解放してくれた。
「ど、どうしました?小動物への欲求不満ですか?」
実家にいる間、狼になっている時は兄のダナンが自分を独占していたので、エスカリオットの鬱憤が溜まっているような気はする。
「それもある」
エスカリオットの腕の力が少し強くなって、より近くに引き寄せられた。
あれ?これは前はなかったぞ。
シャイナの心臓がばくばくし出した。
「それもとは、他にもあるんですか?」
「シャイナを慣らしていこうと思っている」
「な、慣らす?」
「狐のシャイナは、俺に触られるのにすっかり慣れたから、人のシャイナも慣らそうと思っている」
「ひ、人をペット扱いしないでください。そして狼です」
エスカリオットから逃れようとジタバタすると、体に巻き付く腕が強くなった。
「俺はシャイナに愛の告白のようなものをしたと思うのだが、ここまで人を落としておいて、放置はないだろう。時々、甘えさせるべきだ、これくらいのハグには慣れてほしい。雇い主として当然だ」
「ええっ?!」
そうか?
そうなのだろうか?
え?そうか?
とにかく今は心臓が煩くて、冷静に考えられそうもないシャイナだ。
「大丈夫だ、何もしない。じっとしているならきつく抱かない。ほら、慣れてきただろう?」
エスカリオットの腕の力が緩んで、右手が優しくシャイナの頭を撫でる。その手つきは狼の時に撫でられるのと同じ手つきで、妙に安心して気持ちいい。
「…………」
慣れてきた気もする。
「何もしないだろう」
「そうですけど」
シャイナの心臓は、ばくばく、から、とくとく、くらいに落ち着いてきた。体がふわふわして何だか幸せな気分だ。
「エスカリオットさん、ちょっと慣れましたし、そろそろ離してください」
しばらく経ってからそう言うと、エスカリオットはするりと腕を解いてくれた。
そして腕を解いたエスカリオットが聞いてくる。
「時々、今のような親愛のハグをしてもよいだろうか?」
「えっ」
ハグ?
今のは親愛のハグだったみたいだ。
親愛のハグならいいだろうか。
シャイナはふわふわした頭で考える。
エスカリオットは剣闘士奴隷だった人で、戦争では苦い思いもたくさんしたみたいで、闘技場から連れて帰って来た当初は生に厭いているようだった。
食べ物と寝る場所を与えて、服を与えると刺々しさは消えて、町の外れで黒炎の蛇で戦った後は少し生き生きし出した。
最初の満月の後は料理に精を出すようになり、傭兵団にも顔を出すようになって、口数も増えたが、国境の森では未来を描く資格はないと言い、母のエイミからはラシーンでヘイブンと会った時に泣いていた、という事も、こっそり聞いている。
泣いた事は悪い事ではないと思う。
きっと今までは、エスカリオットは泣けもしなかったのだ。
シャイナはエスカリオットの残りの半生を穏やかなものにしようと決意したが、その想いはこの里帰りで更に強くなっている。
自分とのハグでエスカリオットが心の平穏を得られるなら、それはシャイナにとって喜ばしいことだ。
何といっても、エスカリオットはシャイナの美しい黒豹なのだから。
機嫌のよい美しい黒豹、素敵ではないか。
それに、さっきのハグは恥ずかしかったけど嫌ではなかった。むしろ、少し嬉しかったような気もする。狼の時に随分撫でて、抱き締めてもらってるので、何かが刷り込まれているのかもしれない。
「時々ならよいでしょう」
ふわふわしたままシャイナが頷くと、エスカリオットが優しく微笑んだ。
***
エスカリオットからの親愛のハグを認めてから数日後。
この日シャイナは、留守を頼んでいたエイダにお礼がてら、エイダの切り盛りする店、ダイズバーにエスカリオットと共に顔を出している。
「エスカリオットさんが教えてくれたラシーンの料理よ」
エイダが嬉しそうに、鹿肉のブルーベリソース煮込み、猪とリンゴの甘煮炒め山椒と共に、胡桃と乾燥アンズのサラダ、等の料理を出してくれてどれもとても美味しくいただく。
隣にエスカリオットもいることであるし、シャイナは今回も安心して甘いお酒を飲んだ。
ちびちび飲んでいたはずなのに、頭は早くもふわふわしている。エスカリオットにハグしてもらう時に似ている。
エスカリオットの方を見ると、旨そうに安いワインを飲みながらエイダと仲良さげに喋っていた。
「シャイナちゃんとはどう?」
「シャイナに恋人だと自覚してもらおうと思っている」
エイダの問いかけにエスカリオットが答える。
む、恋人だと?
エスカリオットさんの?
誰だ、それ、一体どこの女だ?
酔いが回ったシャイナには、エスカリオットの言葉は朧気にしか聞こえない。肝心の自分の名前を聞き逃しているシャイナだ。
「あら、急展開。てっきりシャイナちゃんの片想いで、エスカリオットさんは大人として見守ってるのかと思ってたんだけど?」
はあ?!片想いだと?
私の美しい黒豹は誰に片思いしているんだ?
“片想い”と“エスカリオット“という単語だけ拾うシャイナだ。
ムカついたシャイナがエスカリオットの義手の左手に手を伸ばすと、特に抵抗なくそれは差し出されたので、ガジガジと甘噛みした。
「当初は庇護欲だったのだろう、獣になった時の愛らしさは筆舌に尽くしがたい。いつから惚れたのか定かではないが、最近は所有欲に独占欲も出てきている。
未来を考えるつもりはなかったのだが、俺は一生、シャイナの側にいるつもりのようだ」
左手を噛まれながらエスカリオットが淡々と語る。
「エスカリオットさんて、ちゃんと言葉にする人だったのね……」
エイダがびっくりしている。
「ラシーンでは、俺がシャイナの獲物である事もはっきりしたし、ゆくゆくは手を出したい。それには、シャイナにその気になってもらわないと困る」
だから、その片想いの相手、誰だ?
八つ裂きにしてやろうか、磔にしてやろうか、地獄の業火で焼いてやろうか……。
シャイナはムカつきながら、エスカリオットの手を噛む。
「その気ねえ」
「というわけで、ハグから慣らしている」
「時間がかかりそうね」
ガジガジしているシャイナをエイダが残念そうに見てきた。
「甘噛みは愛情表現の1つでしょうけど、これじゃねえ。気に入りの玩具を取られるのが嫌な感じかしら、まだまだお子様よね。大人の狼は好きな相手の首を甘噛みするのよね」
「らしいな」
む、なんだなんだ、なんで2人して残念そうに私を見てるんだ?
くそう、やっぱり息もぴったりだな。
ガジガジ。
「あら、大変、エスカリオットさん、シャイナちゃんの目が赤いわ」
「シャイナ、大丈夫だ。エイダはそそらない。俺の好みは小動物だ」
がーん!
「そんなあ……」
わたし、おおかみなのに。
既視感のある、あまりのショックに意識が遠のく。
シャイナはぼんやりしだした意識で最後に、エスカリオットとエイダのやり取りを聞いた。
「ねえ、私にそそらない、は失礼じゃない?」
「エイダ、好みの問題だ」




