決裂
帝国の南に位置する町キースリングはいま、町に祀られた聖人の生誕祭の真っ最中であった。
ユーリはキースリングの聖堂を訪ね、司祭と共に町の人々に祝福を与えていく――洗足式と呼ばれる儀式を皇帝自ら行い、町の人たちの足を洗うのだ。
もちろん全員ではなく、事前に選ばれた数人を相手に、だが。
とても有難いイベントのため、聖堂の外では少しでもその様子が見れないかと町中の人たちが集まっていた。
「このような儀式の何がありがたいものか。わしはよぼよぼの爺の足を洗うなど、ゾッとするだけだ」
修道士たちと共に、ユーリが洗足の儀式を行うのを眺めていたローヴァイン枢機卿がボヤく。
普段なら彼の不遜な発言も愛想笑いで返すことしかできないのだが、今回は少し事情が違った。
キースリング司祭が、呆れたように溜息を吐く。
「半世紀も生きようかというのに、そなたは相変わらずだな。十代の頃と何も変わらぬ鼻たれ坊主だ――神よ。どうかこの悪童をお許しを――」
「やかましいぞ老いぼれめ。いつまでも若輩者扱いしおって――年寄りは後進のためにさっさと去るのが仕事であろう」
厳かな聖堂で罵詈雑言の応酬が繰り広げられているが、険悪な雰囲気はなかった。
キースリングの司祭とローヴァイン枢機卿は旧知の仲らしく、これは昔馴染みにありがちないつもの軽口だそうだ。
キースリングの司祭は、ローヴァインより二十歳ほど年上の老人。枢機卿のことは彼が十代の頃から知っており、枢機卿も頭の上がらない数少ない相手……ということを、その夜ユーリは知った。
「わしに読み書きを教えたお節介爺だ。いまでもわしの顔を見ると説教をしおる。いまや格はわしのほうがすっかり上になったというのに、ひよっこの見習いだった時と同じ扱いをしてくるのだ」
そう話しながらも、酒を飲む枢機卿ローヴァインは上機嫌だ。
態度には出さないが、彼にとっては恩人であり、育ての親にも等しい相手なのだろう。
向かいの椅子にゆったりと腰かけて話を聞いていたユーリも、愛想抜きで笑っていた。
「才はあるのだが、要領の悪い男でな。このような地で小さくおさまっておる……」
「キースリングの町の人々からは尊敬され、深く愛されている。周囲が思うよりも、彼は幸福なのかもしれないな。ここでの勤めに満足しているように見えた」
「……そうかもしれぬ。上等な椅子に座ってふんぞり返っているよりは、町へ出ているほうが楽しいらしい……そろそろ、足腰も限界の年だろうに」
ローヴァインは酒を飲み、ユーリの膝に足を乗せてくる。ニヤニヤと笑う枢機卿に、ユーリは苦笑した。
「わしも洗足の儀を受ければよかったな。ローゼンハイム帝に足を洗ってもらうなど、めったにない機会だっただろうに」
「ボクたちの場合だと、逆のほうが相応しいのでは?」
「それも悪くはない。おまえの足ならば、隅々まで洗ってやろう」
ローヴァインが立ち上がり、向かいに腰かけているユーリに圧し掛かってくる。
大きな手が胸元を撫でてきて、唇を塞がれる――ユーリは、従順にそれを受け入れた。
今夜のローヴァイン卿は機嫌がいい。前の時のような乱暴さもなく、今回は和やかな雰囲気さえある。
だから……大人しくしていることが最も良い選択なのは分かっているのだが……。
自分の肌を撫でる枢機卿ローヴァインの手が下へと降りていって、腹部に触れた途端、言い表しようのない恐怖と嫌悪感がわき上がった。
ほとんど衝動的に、彼の胸を押し返してしまう。鍛えられた身体はびくともしなかったが、初めて見せたユーリの抵抗に枢機卿も反応した。
「……すまない。いまは……」
正直に話すか、誤魔化すか。
一瞬悩んだが、自分にしてはあまりにも過剰な拒絶反応を示してしまったから、それが誤魔化せるだけの言い分が思いつかなかった。
不審な目を向ける枢機卿を前に、ユーリは正直に話すほうを選んだ。
「……妊娠しているんだ。子が生まれるまでは、許してほしい」
打ち明けた瞬間、自分の選択が誤りであったことを察した。
ユーリの妊娠を聞かされたローヴァインの目に、狂気の色が宿るのが見えて。
「セレス――!」
自身の化神の名を咄嗟に呼んだ。視界が大きく反転し、気が付いた時には、ユーリはセレスの腕の中にいた。
部屋に飛び込んできたセレスに抱きかかえられ、ユーリは椅子から引き離されていた。ユーリが座っていた椅子は……粉砕されている。枢機卿ローヴァインが振り下ろした拳によって。
「クレイグ……」
「――子など堕ろせばよかろう」
ローヴァインの台詞に、ユーリはセレスにぎゅっと抱きついた。
物騒な発言だがそれ以上に、話すローヴァインの声が憎悪に満ちていて。ユーリも思わず息を呑んだ。
「わし以外の男の子など、知ったことか!」
枢機卿が視界から消え、ユーリの視界がまた急に動く。何かが起きているのは分かるのだが、何も見えない。
時々聞こえる破壊音から、ローヴァイン枢機卿が自分を攻撃しようと迫ってきていて、ユーリをかばってセレスも逃げ回っているのだと察した。
やがて轟音が響き渡り、ようやくユーリは室内が見えるようになった。
枢機卿の攻撃が止まって、セレスも動きを止めたのだ。枢機卿は、さらに飛び込んできたヒスイの刀を力任せに押し返している。
「ユーリを傷つけるなら、容赦しないよ」
ヒスイも刀を握る手に力を込め、枢機卿を圧す。恐ろしいことに、手甲で刀を押し返す枢機卿のほうが有利に見えた。化神のヒスイが押し負けるだなんて、そんなこと……。
「ユーリ!」
部屋に、遅れてナーシャが入ってくる。
飛び込んできたヒスイは、どうやら扉をぶっ壊してくれたらしい。もはや扉として機能しなくなった出入り口から追いかけてきたナーシャは、部屋の様子に血の気が引いていた。
「これは――ヒスイ、いったい……」
「こいつはユーリの子を殺そうとした!」
歯を食いしばって刀に力を込めながら、ヒスイが叫ぶ。ヒスイの言うとおりだ、とセレスも続けた。
「ユーリが妊娠していると知って、ユーリを攻撃してきた。教団への敵対行為だと非難されようとも、こちらも反撃しないわけにはいかない!」
ナーシャはセレスからユーリへと視線を移す。枢機卿を本当に攻撃していいのか、ユーリに確認するように。
ユーリがぎゅっと唇を噛んでいると、ヒスイの刀をついに枢機卿が弾き返したのが見えた――体勢を崩したヒスイは枢機卿の蹴りをもろに食らって吹っ飛び、壁に叩きつけられていた。
ヒスイを振り払って再びユーリに突撃しようとする枢機卿を阻んだのは、小さなイタチ……前足が鎌のように変形している。
「リンデンベルク伯!躊躇っている場合ではございません――陛下をお守りせねば!」
イタチは化神だろう。そしてイタチの宿主でもあるオレーク・カルロフがナーシャを叱咤した。
オレークはすでに剣を抜いており、迷うことなく枢機卿に斬りかかる。
枢機卿は武器を持っていなかったが、手近にあった椅子をつかんでオレークの剣に対抗した。
イタチの化神と老練な将軍を相手にしても、枢機卿はまったく退かない。
ガラガラと壁が崩れる音がして、瓦礫の中からヒスイが立ち上がる――ナーシャも剣を抜いた。左手の紋章が、光を放っている。
ナーシャも、本気で戦うつもりだ。だが……。
――状況は、かなりこちらが悪い。ユーリはそう思った。
枢機卿は、まだ紋章を使っていない。彼は大紋章を宿している。それはユーリも知っていた。
だが彼の化神の姿は見えない。ということは、彼はまだ紋章の力を使っていないことになる。その状況で、枢機卿はヒスイもオレークたちも圧倒していて。
しかも狭い室内。
ユーリをかばいながらの戦いとなれば、ヒスイも本領を発揮できない。枢機卿は、ユーリに大きなダメージを与えることが目的で……彼のほうが、目的を果たしやすい。
最悪の結果しか見えなくなった部屋に、果敢にも一人の男が走り込んできた。
「そこまでだ!どちらも武器を下ろせ!平和なキースリングの町を、戦場にするのは私が許さぬ!」
キースリングの司祭は叫び、すぐにぜいぜいと荒く息をして腹を抱えていた。
恐らく、異変に気付いて宿まで駆けつけてくれたのだろう。七十を超えた司祭は、自分よりも遥かに体躯の良い男相手にも怯まなかった。
司祭に睨まれた枢機卿は怒りに満ちた表情を変えはしなかったが、舌打ちをして、臨戦態勢を解いた。ユーリを見る目の奥では憎悪の炎がまだ燃え上がっているが、いったん奥深くに閉じ込めることにしたらしい。
「……次に会う時を、楽しみにしておこう。わしを敵に回して、それでも戦場に出てくる勇気があれば、だがな」
捨て台詞を吐き、枢機卿は部屋を出て行った。
きっとこのまま、帝国からも出て行くことだろう。そして教団に戻り、帝国を攻める準備を始める――枢機卿クレイグ・ローヴァインも、これでローゼンハイムの敵となることが確定した。
いま、世界で最も敵に回してはならない男が敵になってしまった。
自分が我慢すればよかった――分かっていたのに、できなかった。ユーリは無意識にぎゅっと拳を握り締め、もう一方の手をお腹に当てた。
「ありがとう、司祭殿。おかげで命拾いした」
ユーリが礼を言うと、司祭はため息を吐き、苦難に満ちた表情をする。ユーリを労わりつつも、とんだことになった、と彼も困り果てているようだった。
「昔から激情家だとは思っていたが……あなたのことで、完全に心を狂わせたようだ――そう意外でもありませんよ。あやつとて人間です」
自分の言葉に戸惑いを見せるユーリに、司祭が言った。
「人々は時折忘れますがな。あやつも、内面を見てみればどこでもいる男なのですよ。きっとあなたが思うよりもずっと、些細なことに強く執着する」
司祭は言葉を切ってもう一度ため息を吐き、荒れた部屋を見回す。
「……帝国は、教団と戦争になってしまうのでしょうか」
「ああ。きっとそうなる」
すでに、エンデニル教団とは戦火を切り開いている。それに枢機卿ローヴァインが加わるだけ。
……天地がひっくり返るほど、戦況が変わってしまうことだろう。
「戦場に出てしまったら、もはやあやつに私の言葉など届かないでしょうな。戦士としては、恐ろしく容赦のない男だ……」
ナーシャもオレークも黙り込んでいた。ヒスイも、いつもの軽口を閉ざしている。
誰もが痛感したばかりだ。枢機卿の強さを。
いままで人並外れた力で圧倒してきた帝国が初めて、圧倒的な力を持つ敵に立ち向かわなければならない。
激戦になる――初めて、敗北の文字が見える戦場で、ローゼンハイム帝国は戦うことになる。




