秘密の花園 (1)
マティアスは、エルメンライヒ侯爵家当主である――エルメンライヒ家は、ローゼンハイム帝国でも有数の名門一族。
流行り病によって、マティアス以外の一族は命を落としてしまったそうだが。
「ボクの部屋は、いつもの場所だな。ああ、でも。今回はルティの部屋も用意されているはず……さすがにそれは、マティアスに尋ねないと分からないか」
慣れた様子で屋敷の中を案内しながら、ユーリが考え込む。
ユーリが帝都へ来るのは、これが初めてではない。何度か城に呼ばれたことはあり、基本的にはマティアスの屋敷に泊まっていくらしい。
……皇子なのに、ユーリは城で寝泊まりすることすらほとんどない。ユーリにとってみれば、慣れない城より、マティアスの屋敷のほうがずっと寛げるのかもしれないけれど。
「おいで、ルティ。荷物は一旦ボクの部屋に預けて、ボクたちはラウンジに行こう。玄関も見えるから、マティアスが戻ってきたらすぐに分かる」
荷物はセレスに任せ、ルティはユーリに連れられて屋敷のラウンジへ移動する。
この屋敷のラウンジは、広い図書室といった感じだった。背の高い本棚がぎっしり並び、ゆったりと寛げるふかふかの長椅子がたくさん。
ほとんどがこの屋敷の伝統っぽい、重厚で古めかしいものなのだが、一つだけ雰囲気の違う長椅子があった。
華やかで、色彩豊か。クッションも女性好みな感じで、使い込まれてちょっぴりくったりしている。
ユーリのお気に入りはこれだと、すぐに分かった。
「ルティもそれが気に入ったのかい?ボクも、それが一番のお気に入りだ」
長椅子を見ていたら、ユーリが声をかけてくる。
クッションを抱き枕にし、肘掛け部分を枕にするようにして、ユーリは長椅子に座って寛いだ。座っているというか、寝転んでいるというか。
ルティは本棚を眺めた。
本は種類が様々だ。堅そうな専門書に、なんとなくしか知らない外国語の分厚い本……下のほうの棚には、可愛らしい装飾の本が。手に取って見れば、中は可愛らしい絵柄の絵本だ。
紙はちょっと焼けてて、そこそこ古い絵本らしい。
その本を持って、ルティはユーリが座る長椅子に戻ってきた。
ユーリとぴったりくっついて、ルティも長椅子に座る。絵本を読む自分の髪を、ユーリが優しく撫でていた。
そうしてしばらく時間を潰した後、荷物を部屋に運び終えて、二人を見守っていたセレスが声をかけてくる。
「マティアスが戻ってきたようだ」
窓から外を見るセレスに駆け寄って、ルティも外を見る。
屋敷の門の前に、馬車が。降りてくる人には、もちろん見覚えがあった。
ユーリは今年で十八歳。たしか、十三歳差だと聞いたことがあったから、いまのマティアスはもう三十を超えている。
ルティの感覚だと三十路というのはおじさんなイメージだけど、マティアスには中性的な美しさがある。
巻き戻り前の記憶すべてをひっくるめても、ルティが知る限り世界で二番目に美しい人間だと思う。一番目は、もちろんユーリだ。
「ルティ、玄関へ降りよう」
ユーリの言葉にルティは頷き、玄関へと向かう。ルティのほうが、ユーリをちょっと急かしてしまったぐらいに急ぎ気味に。
玄関ホールに出る階段を降りた時、マティアスがちょうど屋敷に入ってきた。澄んだ瞳が、ルティたちをとらえる。
マティアスが何か言うより先に、彼の化神であるシャンフが人懐っこく声をかけてきた。
「よ。ユーリ、ルティ、久しぶり」
「うむ。久しぶりだな、シャンフ。二人とも息災そうで安心したぞ」
ユーリも、シャンフに挨拶を返す。
シャンフは黒髪を三つ編みおさげに編んでおり、ヒスイとはまた異なる独特な民族衣装を着ている。大人と言うにはちょっと幼いけれど、少年の姿をしているヒスイと比べれば、青年という感じだ。
「ユリウス様、リーゼロッテ様、ご無事に到着くださり、私も安堵いたしております」
マティアスはそう言って、静かに頭を下げる。
リーゼロッテ――ルティの名前。親しい人たちからは、愛称でずっと呼ばれていた。巻き戻り前は、ルティ自身、自分のことをそう呼ぶこともあった。
マティアスは一度たりとも、ルティを愛称で呼んだりはしなかった。ユーリのことも。
どこかよそよそしく、いつも一線を引いた振る舞いをする。だから……彼が自分の父親かもしれないなんて、考えたこともなかった。
言われてみれば、どことなく自分と彼は似ている気はするけれど。
「出迎えが間に合わず、申し訳ありません」
「城に呼ばれていたのか?」
ユーリの問いに、マティアスが頷く。ならば仕方がないな、とユーリが答えた。
「ボクたちの到着がいつになるのか分からないのに、一日中屋敷に張り付いているわけにもいくまい」
「サボればいいのに、マジメ過ぎるんだよ、マティアスは。厄介者扱いで閑職に追いやられてるんだから、仕事なんかどうだっていいのに」
口を挟んだシャンフが、呆れたように言った。
この頃のマティアスの仕事。なんだったっけ、とルティは密かに考えた。
ユーリが皇帝となった後は、間違いなく彼女の補佐。でも、ユーリが皇帝になる前……。
「城の書庫番だそうだ。エルメンライヒ家は代々続く宰相一族だったにも関わらず、マティアスの父上の死後、いささか不遇な立場に追いやられているな」
夕食もとうに終えた就寝時間。ルティを寝かしつけながら、ユーリが説明した。
「とは言え、マティアスが家を継いだ時、彼はまだ十三歳だった。さすがに、その年で宰相職は無理だ。宰相の地位は他の者が得、マティアスは……ボクの後見役を押し付けられた」
ベッドで横になるルティの髪を撫で、ユーリが言葉を続ける。
ユーリの後見人。それは、ルティも覚えている。だから、マティアスにはユーリを世話する義務があり、こまめに辺境にあるあの城に会いに来ていたのだ。
それで……それで、たぶん……そういう関係になってユーリは妊娠した。そうでないと、自分の存在に説明がつかない。
「……お姉様は、マティアスのこと、好き?」
「もちろん好きさ。可愛いキミの父親なんだから。ボク自身、育ててもらった恩人でもあるのだし」
あっけらかんとして答えているが、ユーリの話す「好き」は、ルティが期待した意味ではなさそうだ。
前に、ユーリが言っていた。自分たちの関係は、ユーリもまだ考察中だと。
二人の間に、ロマンスとか、甘い感情はないのだろうか……。
「もう眠ったほうがいい。明日は城だ。朝早くから忙しくなるぞ。急いでドレスを選んで、身支度しなくてはならないのだから」
「うん……」
旅の疲れもあって、ルティはすでにうとうとしていた。
夕食の時に、ユーリはマティアスにドレスの手配を頼んでいた。明日の朝には衣装屋がやって来て、叔父の誕生日パーティーに着るためのドレスを選ぶ。
ユーリの衣装は、すでにマティアスが手配しているらしい。仮にも帝国皇子だから、ユーリが着るものはある程度の決まりがあるのだとか。だから、専用の衣装をオーダー済み。
皇帝となったユーリは、華やかな衣装を数えきれないほど身に纏っている。どれも美しくて……ユリウス三世は、美貌の皇帝としても有名だった。
いまのユーリにとっては、これが初めての盛装になる。この時の彼女の衣装は……あんまり覚えていない。ルティは幼かったし、初めての帝都、初めてのおめかし、初めてのパーティーに浮かれきって、自分のことで頭がいっぱいで。
……明日、運命通りであれば、ユーリの環境は激変する。できるだけ悪い状況にならないよう、自分もしっかり見張らなくては……何ができるのか、いまも思いつかないけれど……。
「おやすみ、ボクの姫君。愛しているよ」
そう言って、ユーリが優しく自分の額に口付けるのを感じた。
――私も愛しているわ。
そう答えたかったけれど、ルティの瞼は重たくて、言葉の代わりに、大きなため息が口から出ただけだった。
すやすやと眠るルティの寝顔を見つめ、ユーリは微笑む。
部屋の灯りを消し、ベッドサイドにちょこんと座っている人形サイズの化神に振り返った。
「ボクも自分の部屋に戻る」
「ああ。おやすみ、ユーリ」
ルティが生まれてから、セレスは夜、娘のほうに付き添うことになっている。それまでは夜もユーリに付き添っていたのだが。
おやすみ、と返しつつ、自分を見るセレスの視線に含んだものを感じ、苦笑いする。
セレスはいまも、マティアスを斬りたくてたまらないらしい。彼の振る舞いについて、納得はしていないのだ。
ルティの部屋を出てすぐに、ユーリはマティアスと出くわした。
彼は何気なく廊下に佇んでいて。
ユーリは、マティアスを見てニヤリと笑う。
「気になるなら、キミも入ってくれば良いだろう。ルティもボクも、歓迎するぞ」
幼くとも女性だから、ルティの部屋を個人的に訪ねることを禁じているのだろう。妙に律儀というか、真面目と言うか。
十年以上の付き合いなのに、ユーリに対しても変なところで一線を引いた振る舞いをしたがる。そのくせ、ユーリが自分の部屋に戻るのには、しっかり付いて来る。
……こういうちぐはぐなところがあるから、ユーリもこの男のことが理解しきれないでいた。
部屋に入った途端、マティアスに抱き寄せられる。
「マティアス。明日のことだが――」
忙しなく自分に触れる男の腕の中、抵抗することなく大人しく収まったユーリは、話しかけて言葉を切った。
自分の言葉を待つマティアスを見上げ、ふっと笑う。
「……いや、いい。明日のことは、明日話すことにしよう。大したことじゃない……明日になれば、ボクも忘れているかもしれない程度のことだ」
ユーリの真意をうかがうように、マティアスの二つの瞳がしばらくじっと自分を見つめていたが、ユーリの手が彼の頬に触れると、わずかに瞳が揺れた。
マティアスの顔が近付いて来るのを、ユーリも目を閉じて受け入れる。
ルティが見た、例の夢の話。
マティアスにも話してみようかと思ってみたけれど、どんな反応が返ってくるかまったく予想できないし、結局やめた。
ベッドに連れて行かれ、慣れた手つきで自分の服を脱がせにかかる男のされるがまま、ユーリはぼんやりと考える。
マティアスが自分の父親だと知ったルティは、この男のことが知りたくてたまらないことだろう。
残念ながら……ルティより遥かに長い付き合いの自分も、目の前の男のことは分からないことだらけ。
本心を語らないと言うより、この男には、語るほどの心があるのか、ちょっと疑うこともある。マティアス自身、ユーリのことをどう思っているのか、分かっていないのではないだろうか。




