18:四年目の女官は、
水面を吹き抜けてきた風がシビルの頬を撫でる。
「寒くはありませんか」
隣に居たアルノーがシビルに顔を向けてそう言う。シビルもまたアルノーに視線を合わせて「はい、平気です」と答えた。
穏やかなある晴れた日。シビルとアルノーはダーウに来ていた。
仕事ではない。かといって婚前旅行とか、ましてハネムーンとかそういうものでもなかった。ただ二人で出かけたという、それだけのことだ。
女官長は『あらあ、婚前旅行というやつね。アルノー様がお忙しいから日帰りになってしまうのは仕方ないわね、どうか楽しんできてね』と言ったが、ただ二人で出かけただけだ。
更にアーサラムは『婚前旅行か、日帰りになるのは仕方がないな。しかし今の時期なら人も少なくてゆっくりできるだろう、恋人のつり橋で思う存分語らってくるといい』と言ったが、断じてただ二人で出かけたと、それだけのことである。
そうしてダーウに出かけてきたシビルとアルノーは、つり橋の上で並んで景色を眺めているのだった。
つり橋にはそこかしこに様々の色のリボンが結び付けられていた。それらはこの橋を訪れた恋人たちが永遠の愛を願って結び付けていったもので、この橋が『恋人のつり橋』と呼ばれる所以なのだが、不思議とそんなことはどうでもよかった。
アーサラムの言った通り人は少ないどころかシビルとアルノーの他にはおらず、足の下を運河が雄大に流れ過ぎていく。その流れの音だけが静かな空間を満たしている。それを今、自分はアルノーと共有しているのだ。そんなことを思えば満たされていくような不思議な心地がして、他のことはどうでもいいような気になるのである。
「あの、アルノー様」
シビルがアルノーの名前を呼ぶと、アルノーがにこりと微笑んで「はい」と言う。
「改めて、感謝させてください。本当に、ありがとうございます」
アルノーの顔をまっすぐ見つめて、シビルはそう言った。
父と義母に伝えた心からのそれを、アルノーにも伝えたいと思っていた。そしてこの静かな空間でなら、それを伝えることができると思ったのだ。
「アルノー様のおかげで、わたしは家族の愛情を思い出して、向き合うことができました。それに、自分の弱さとも向き合えたと思っています。あの……もちろん、アルノー様の愛情も、その、とても嬉しくて、ありがたいものだとも思っています、ですから、どうしても改めて伝えたいと思っていました」
シビルは照れくささをにじませながら、そんな胸の内を伝えた。
愛されていることを自覚するというのは、弱くなることだ。守られてしまえば弱くなる。その弱さを受け入れたくなくて、家族の愛情も見ないふりをしていた。
しかしアルノーは見ないふりも出来ないほどに、シビルに愛を見せつけた。そしてアーサラムは、その愛に甘えろと言った。
愛してくれる人が、守ってくれる人が、いる。
それを知った自分は弱かった。けれどきっと、弱くていいのだ。
「それでは私も、改めて伝えさせてください」
思いがけない返答に、シビルは少し驚いてアルノーを見つめた。アルノーはやはり穏やかな笑みを浮かべたまま、シビルに向って手を差し出した。「手を」と言われたので、シビルは素直にその手に自分のそれを重ねる。
重ねたその手は、優しく握られた。
「シビル・スケサン男爵令嬢、私はあなたを愛しています。どうか私と、結婚してくださいませんか」
さあと風が吹き過ぎて、恋人たちが結んだリボンを揺らした。
普段よりも速く鳴る鼓動は吊り橋のせいではないとシビルはわかっている。これが吊り橋の恐怖のせいだったなら、こんなにも心地よいと感じられるはずがない。
「はい、喜んで、お受けします」
心からそう言えた。
妻という仕事に就くのではない。この人の妻に、家族に、なろうと思えた。いや、なりたいと、そう思うから。
アルノーが浮かべた満面の笑みがシビルの心を満たしていく。アルノーが笑えば、嬉しいと思う。そんなことに幸福を感じるなど、自分は浮かれている。
けれど、きっとこれが、幸せということなのだろう。
近づいてくる幸福に、シビルはそっと目を閉じる。
こうして四年目の女官は、愛されることを受け入れた。