紅「こう」の望む事
――その頃。
しずくのいる世界とは全く異なる世界。
そこでは、一人の男が歩いていた。
人々は自然と道を開ける。
誰も命令などしていない。
だが誰もが足を止め、その姿を見つめていた。
「見て……」
「あの方は……」
「紅様よ」
羨望。
憧憬。
尊敬。
様々な感情が入り混じった視線が集まる。
「本当に凄い方よね……」
「強さだけじゃないもの」
「知識も人格も品格も」
「全部持ってる」
「どうしたらあんな方が生まれるのかしら……」
誰もが口々に語る。
だが、その中心にいる男は興味を示さない。
紅。
軍神。
天才。
英雄。
数多の異名を持つ男。
国々から崇められ。
人々から讃えられ。
絶対的な存在として扱われていた。
そんな紅へ、一人の女性が歩み寄る。
周囲がざわつく。
蒼。
誰もが認める絶世の美女。
高貴な家柄。
優れた学問。
洗練された礼儀作法。
彼女もまた、多くの者が憧れる存在だった。
しかし。
蒼の視線はただ一人へ向けられている。
「紅様……」
紅は振り返る。
そして小さくため息を吐いた。
「なんだ」
「また来たのか」
蒼は少しだけ顔を赤くする。
「その……」
「以前お話しした件について……」
「断る」
即答だった。
蒼の表情が固まる。
「ど、どうしてですか!?」
「私は……」
「私は紅様に相応しい女性になれるよう努力してきました!」
「学問も学びました!」
「礼儀も!」
「品位も!」
「すべて紅様のために……!」
紅は鼻で笑った。
「努力?」
「自身の容姿を磨くことを努力と言うなら認めてやろう」
「だが」
「俺はそれに価値を見出す気などない」
蒼は息を呑む。
「容姿だけではありません!」
「私はたくさん学びました!」
「紅様に釣り合えるように――」
「それは俺のためか?」
蒼は即座に答えた。
「もちろんです!」
「紅様のためなら私は何だって――」
「だからだ」
蒼の言葉を遮るように紅が告げた。
「だからお前は不要なのだ」
蒼の顔から血の気が引く。
「な……」
「どうして……」
紅は淡々と言った。
「俺が何か不足していると本気で思っているのか?」
「馬鹿馬鹿しい」
「俺に求められることなどどうでもいい」
「数多の人々が何を求めているか」
「そちらの方が遥かに重要だ」
蒼は首を振る。
「私は紅様以外見ておりません!」
「紅様だけを――」
「話にならん」
紅は背を向けた。
「だからお前たちは何もわかっていない」
静かな声だった。
だが。
そこには明確な失望が込められていた。
「蒼よ」
「お前は美しい」
「それは認めよう」
「だが」
「それだけだ」
「お前の考えは俺と何もかもが違いすぎる」
蒼は立ち尽くす。
何も言えなかった。
周囲の人々も理解できない。
なぜ紅が蒼を拒絶するのか。
なぜ紅は栄光を受け入れないのか。
誰も知らない。
誰も気付いていない。
紅が本当に望んでいるものを。
紅は名声を望んでいない。
才能を認められたいわけでもない。
崇拝されたいわけでもない。
むしろ逆だった。
嫌悪している。
人々は考えることをやめる。
強者へ依存する。
英雄へ寄り掛かる。
軍神へ答えを求める。
それが紅には耐え難かった。
彼が変えたいのは世界ではない。
人々の認識そのものだった。
だから努力する。
だから結果を出す。
だから導こうとする。
だが皮肉にも。
努力を重ねれば重ねるほど。
成果を上げれば上げるほど。
人々は紅を神格化していく。
自ら考えることをやめていく。
本当につまらない。
本当にくだらない。
紅の瞳に映る人々は。
巨大な船に張り付き続けるフジツボと変わらなかった。
容姿の差などない。
身分の差などない。
才能の差などない。
紅にとっては。
すべてが等しい。
そして。
すべてが等しく醜かった。




