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荷物

朝。冷気を押し除けるように無理矢理毛布を剥がす。

「…起きろ」

同居人は小さく唸り声をあげ、毛布の端を掴み抵抗する。だが数分もすると諦め、いかにも寒そうに袖に手を引っ込めながら階下へ降りる。

「カンド」

そう同居人が名乗ったのは、あの取引の翌日だった。

一週間も同じ屋根の下で過ごせば、嫌でも分かることがある。

名前は覚えている。日常生活も難なく送れている。食事も風呂も、言われれば一通りこなせる。だが、それ以外になると途端に言葉が途切れる。

出身。

家族。

戦争。

彼女にいくら問いかけても、ただ曖昧に首を振るだけ。

多分記憶が抜けている。



あの日、俺は彼女の取引に応じた。

魔族との接点は、解放戦線にとってそれだけで価値がある。

「カンド、野菜食え。」

綺麗に整えられたテーブルクロス上に置かれた皿と睨み合う彼女は、膝に手を置いたまま動かない。空いた席には例の荷物が無造作にかけられている。バッグの口は空いたままで、中身は覗かなくとも見える。同居初日にその荷物を改めさせたことを思い出す。

「中、見せろ」

そう言うと、彼女は抵抗もせず薄汚れたバッグを差し出した。中に入っていたのは二つだけだった。一枚の封筒と、色褪せた写真。写真には古びた家と、その前に広がる田畑が写っていた。どこにでもありそうな風景だ。

「故郷か?」

訊いたが、カンドは首を横に振った。知らない、というより、本当に判断できない顔だった。

封筒の中には便箋が一枚。書かれていたのは魔族文字だった。俺には読めないから後で翻訳を頼んだが、返ってきた内容は、拍子抜けするほど平凡だった。季節のこと、体調のこと、ありふれた近況。暗号めいたものも、政治的な匂いもない。興味を失って封筒へ戻しかけたときだった。何気なく裏返した拍子に、端に別の文字が見えた。

署名だった。

Linz Oberöster。

少しくすんでいるが確かにアルファベットでそう記されている。魔族文字の便箋に、人間の文字の署名…。

不自然だった。

「これ、読めるか」

便箋を見せると、カンドは目を細めたあと、ゆっくり首を振った。写真のときと同じ反応だった。

知らないのか、思い出せないのか、自分でも区別がついていないように見える。結局、その二つは彼女自身が大事そうに持ち歩いている。理由も分からないまま。

俺は基本的に打算で動く。無駄なことはしない主義だ。だが、こういう半端な謎だけは駄目だった。学者一家の長男として育った性分なのかもしれない。説明のつかないものを見ると、どうしても中身を確かめたくなる。

「食わないなら片づけるぞ」

そう言うと、カンドは渋々フォークを持った。

葉物を一枚だけ刺し、ひどく嫌そうな顔で口へ運ぶ。まるで毒見でもするようだった。

「雪の味がする〜!」

…おそらく彼女はポエムか何かを言っているのだと思う。

そんな様子を見ながら俺は便箋の署名を思い出していた。

——あの名前を、一度調べる必要がある。


そう思って便箋を封筒へ戻したところで、玄関のチャイムが鳴った。

俺は皿を乾燥台において玄関へ向かう。鍵を開けた瞬間、向こうから勢いよく扉が押し開かれる。

「よお!ホルム!来ちゃった!」

180cmはあろうかという体躯とは似ても似つかない軽快な声。揃えらたボブカットに光が反射して眩しい。

「…なんで来たんだ。」

「気になるじゃんかー!ほら、この前話してた…」

「黙れ。ここ、巡回。わかる?」

カンドの話をしたのは間違いだったな、とすぐに後悔した。だがもう遅い。

「…とりあえず上がれ。レイのデカさだと目立って仕方ねえよ。」

彼女は俺の言葉を聞くや否やすぐにリビングへ入っていった。

「カンドちゃーん!きゃーっ!ちいちゃくってかわいいーっ!」

その勢いのまま抱きつかれ、カンドは「あっ」と短く声を漏らした。抵抗する間もなく、大きな腕に包まれる。

「ちょ、ホルム…これ、何…」

カンドが苦しそうに俺に問う。レイは彼女の角に気づいて何かを企んでいるようだ。レイの顔が角に近づく。

「レイ!やめないか。」

俺はレイを一喝する。

「あっ、ごめんなさい。カンドちゃんかわいくて…つい…。」

レイは俺の声を聞くなり角に噛みつこうとした口を閉じ、カンドを解放して謝罪した。

「すまないね。カンド。これは彼女の国の愛情表現なんだ…許してやってくれ。」

「私ホルムと同郷…」

「黙れ。」

カンドは長い耳をピクピクさせながら困惑の表情を元に戻し、レイに話し始める。

「…ちょっとびっくりしたけど、別に可愛がられるのが嫌いな訳じゃないから…」

そして彼女はレイの顔を見上げて続ける。

「だからその…気にしないで?」

レイが固まる。呼吸で上下する肩の動きがどんどん激しくなってくる。

「…レイ?」

「だってぇ、こんな、こんないい子、い、いい子ぉ!」

彼女の言葉は嗚咽に塗れている。

ああそうだ。久しぶりに会ったから忘れてたけどこいつ相当涙脆いんだったな。

「す、すな、素直ぉ…。こん、こ、こんこんなにぃ小さいのに…ぃ」

俺はいつもの事なのでレイを無視してカンドに話す。

「まあ、こいつは変人だ。見ての通りな。だが腕は立つ。ほら、自己紹介しろ。」

俺がそう言うと、レイは鼻を啜りながら自己紹介を始める。切り替えが早いのもレイらしい。

「…私はレイキ・ヴィーク、ホルムからはレイって呼ばれてます!ホルムとは大学で同じ自治連合会にいて、よく一緒に動いてます!よろしくお願いします!」

レイは先ほどの非礼を詫びるためであろうか、丁寧な口調である。

「それとその耳と角!めちゃかわいい!…後でさ!その、ちょっと、本当にちょっとだけぇ!触らせ…痛っ!」

俺はレイを殴った。

しかしカンドはそれを無視する。少しの沈黙の後、同じように挨拶をし始める。

「私はカンド…、苗字は…分からない。レイキさん、よろしくね?」

言い終わらない内に手を差し出す。

「レイでいいよ…」

「それじゃあレイって呼ばせてもらうね?」

二人はぎこちなく、それでも確かに手を握った。

「あっ、それとレイ。角、噛むのはやめてね?多分君下手くそだろうから。」

レイは消えそうな声で「はい。」と呟いた。

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