第35話 知らない顔
気合いを入れて会社に来たはずなのに。
……なんでこうなるの?
目の前に立つ女性へそっと視線を向ける。
会社の屋上を吹き抜ける風に、彼女の長く綺麗な髪がふわりと揺れた。
艶のある瞳が私をとらえ、胸がどきりと跳ねる。
なんとも妖艶な人だ。視線を外せないほど美しくて、色っぽい。
桐生さんの隣がよく似合う。この前、彼の隣に立っていたあの女性だった。
昼休みに突然、彼女から声をかけられた。驚いたけれど、桐生さん絡みかもしれないと思い、そのままついてきた。
そして今、屋上でこうして向かい合っている。
いったい何の話なんだろう。桐生さんのことだよね? 「別れてほしい」とか言われるのかな。
そんなことをぼんやり考えていると、彼女が口を開いた。
「この前のことだけど」
綺麗な口元から発せられる声まで美しかった。色っぽくて、艶のある声だ。
「……はい」
緊張して背筋が自然と伸びる。
彼女がゆっくりとこちらへ歩いてきた。
目の前に立たれると、ふわりといい匂いが漂ってくる。
女性らしい香水の香り。
思わずじっと見つめてしまった。近くで見ると、その美しさはいっそう際立っている。
……綺麗。
ぼーっとしていると彼女が噴き出した。
「ふふっ、かわいい」
可笑しそうに笑う。その表情はどこか幼くて、意外と可愛らしかった。
「へ? あ、あの……」
彼女はひとしきり笑った後、改めてこちらを向いた。
「ごめんなさい。なんだか素直で、純粋そうで。桐生くんの言う通りだなって思って」
その言葉にじんと胸があたたかくなる。
桐生さん、そんなふうに私のことを……。
「もしかして勘違いしてるといけないから。
私、桐生くんとは何でもないのよ」
そう言われて、思考が止まった。
……え? どういうこと?
「桐生くんとは古い友人というか、親友みたいなものかな。
よく一緒に飲んだり、愚痴を言い合ったり相談に乗ったりする関係。
私たちが恋愛関係になることは、絶対にない」
はっきり告げてにこりと微笑む。
「は、はあ……」
そうだったの? あまりにもお似合いだったから、てっきり。
私の勘違いだったんだ。恥ずかしい。
「あの……どうしてわざわざそんなことを?」
問いかけると、彼女は目を細め、やさしく笑った。
「ふふっ。だって桐生くんが心配してたから。
もしかして、誤解されてるかもーって」
少し肩をすくめる。
「おかしいのよ、彼。
普段はあんなに冷静なのに、あなたのことになると子どもみたいなんだから」
声を上げて笑う彼女を私はただ呆然と見つめていた。
桐生さんを「子どもみたい」なんて言える人がいるなんて、すごい。
彼女はまた、ふわりと微笑む。
「桐生くんはあなたに夢中よ」
ふっと息をついて、静かに続ける。
「桐生くんからよくあなたのことを相談されていたの。
女性とは何度もお付き合いしてたみたいだけど、あなたみたいなタイプは初めてらしくて。
傷つけたくないんだ、どうすればいい?
って、よく泣きべそかいてた」
ふふっと、また可笑しそうに笑う。
私は開いた口が塞がらなかった。だって、あの桐生さんが泣きべそって、想像したら笑えてしまった。
「おかしいわよね?
今回のあのデートも、彼が私に頼んできたのよ。
望月さんが他の男とデートするって言うんだ。
悔しいから、俺も焼きもちを焼かせる。頼むから俺の恋人の振りをしてくれって」
……そ、そんなことが。
さっきから想像を超える出来事の連続で、私はその場に立ちつくし、ただ目を瞬かせていた。
「で、あのとき。
あなたを傷つけてしまって……彼、すごく後悔してた。
ほんと、廃人みたいになってたわよ」
少しだけ笑ってから、彼女はどこか切なさを帯びた笑みを浮かべる。
「桐生くんはあなたのことが本当に好きなの。
それだけは、信じてあげてほしい」
近づいてきて、ぎゅっと手を握られた。
何かを訴えるように私を見つめ、そっと微笑んだあと、彼女は背を向けて去っていった。
* * *
午後になっても、頭の中は彼のことでいっぱいだった。
パソコンに向かっていても、文字がまるで頭に入ってこない。
仕事どころじゃない。いや、仕事はしなきゃいけないんだけど手が動かないし、やる気も出ない。
だって、屋上の出来事が何度も頭の中を駆け巡る。
なんでこうなるの? 今朝、気持ちを決めたばかりだっていうのに。
ずっと面倒だと思われているとばかり思ってた。
何度もすれ違うたびに、彼は私のことが嫌になったんだって。
なのに。
あの桐生さんが、そこまで私を想ってくれていたなんて。そんなのわかるわけないじゃない。
でも、彼女が嘘をついているようには見えなかった。
あーもう。どうすんだ、私。
土岐くんのことが好きで、彼と向き合おうって思ったばかりだったのに。
それでも。やっぱり桐生さんのことだって嫌いになったわけじゃなくて。
あんな熱い想いを聞かされたら気持ちが揺らいでしまう。
どうすればいいのかわからない。
乙女心ってほんとに複雑。こんなことになるなら、恋愛なんてしなければよかった。
……ほんとうに?
わからない。だって、今回のことがなければ、桐生さんと深く関わることはなかった。
すれ違ったり、挨拶を交わす程度で、違う世界の住人だと遠くから眺めるだけだったはず。
土岐くんとだって、今みたいな関係にはなっていない。
一緒にいて、なんでも話せる存在になんて。
そっと視線を動かすと桐生さんと目が合った。
ひっ。反射的に視線を逸らしてしまう。
ど、どうしよう。ごめんなさい。
心の中で謝りながら、もう一度見る勇気が出なくて、私は無理やり仕事に意識を戻した。




