第16話 逃げられない
土岐くんの表情がふっと沈んだ。
どこか心配そうに眉を寄せて私の様子をうかがってくる。
「あの……大丈夫かなって思って。その、元気ないみたいだから」
ドキッとした。図星を突かれた気がして、胸が小さく跳ねた。
「だ、だいじょうぶだよ。心配してくれたの? ありがとう。
土岐くんは優しいね」
なるべく平気なふりをしてみたけど、たぶんあまり意味はない。
隠そうとしても、どうせ伝わってしまう気がした。
視線をさまよわせていると、彼がぽつりと言った。
「さっきも辛そうだった。
あれだよね? 桐生さんのことで」
やっぱり、バレてる。
「うん、まあ……って、いいのいいの!
土岐くんが心配するようなことじゃないから」
そう。彼には関係ない。これ以上巻き込むわけにはいかない。
これは私がなんとかしなきゃいけないことだ。自信なんてまるでないけど。
「だいじょうぶ。絶対に僕が誤解を解いてあげるから」
「え……」
前にも言っていたけど本気だったの?
驚いて目を丸くすると、土岐くんは迷いのない視線を向けてきた。
「昨日のお礼がしたいんだ。もとはと言えば僕が原因なんだし。
プレゼントもね、妹、すごく喜んでた。本当に感謝してる。
ね、お願い。お礼をさせて。
でないと、僕の気が済まないよ」
懇願するような切実な瞳。
逃げ場のないくらい、真っ直ぐに向けられている。
そんな少し甘えるみたいな声で言われたら――
断れるわけがないよ。
「で、でも……」
「安心して。桐生さんにちゃんと説明するだけだから。
僕を信じてほしい」
心が揺れる。
こんなに澄んだ迷いのない目を向けられたこと、今まであっただろうか。
頼りたい。彼なら、なんとかしてくれるかもしれない。
理由はわからないけど自然とそう思ってしまう。
知り合ってまだそんなに経っていないのに。不思議だ。
彼なら大丈夫。人を傷つけたり裏切ったりする人じゃない。
まだ全部を知っているわけじゃないのに、一緒にいると伝わってくる。
土岐くんは、純粋で、とても優しい人だ。
どうしよう。ひとりで悩んでいても何も変わらなさそうだし。
ここは……頼ってみてもいいのかもしれない。
「じゃ、じゃあ……お願いしようかな」
ぽつりと漏らした瞬間、彼の表情がぱっと明るくなった。
「ほんとに!? わかった、任せて!
信頼してくれてありがとう。嬉しいな」
にこにこと笑うその姿がまぶしくて、胸のあたりがじんわりとあたたかくなる。
彼の笑顔を見ていると、張りつめていたものが少しずつほどけていく気がした。
さっきまでの疲れも悩みも、ふっと消えていく。
こんなふうに誰かに頼って、気持ちを預けるなんて。
少し前の私には考えられなかった。
ずっと、人を信用しないようにしてきた。
また傷つくのが怖くて、裏切られることに怯えて、心に鍵をかけていた。
でも――彼なら。
そう、心のどこかが訴える。
がんじがらめだった鎖をそっと外すみたいに。
閉め切っていた扉をやさしくノックするみたいに。
柔らかな風が、通り抜けていく。
土岐くんに出会えてよかった。
自然と口元がゆるむ。
すると彼も、ふわりと笑ってくれた。
土岐くんはその日すぐに行動に移した。
それがわかったのは、残業でひとりになっていた私のところへ桐生さんがやって来たから。
「……望月さん、ちょっといい?」
すでに他の社員は帰っていてフロアには私と桐生さんだけ。
静かな空間に、彼の声がはっきりと響いた。
最初は夢かと思った。
ずっと避けられていたし、もう話しかけてもらえないものだとばかり。
どうしよう。緊張からかすぐに振り向けない。
パソコンの画面に視線を残したまま、その場で固まっていた。
ゆっくりと近づいてくる気配がする。それだけで鼓動が驚くほど速くなった。
隣に立つ気配を感じ、意を決して顔を上げる。
桐生さんのまっすぐな視線と、真正面からぶつかった。
「……あの」
「は、はい」
声が少し上ずる。自分でもわかるくらい、緊張していた。
「ごめん!」
桐生さんは深く頭を下げた。
「ええっ」
思わず口を開けたまま、また固まる。
なにが起きているのかすぐには理解できなかった。
しばらくして、彼がゆっくり顔を上げる。
暗く沈んだ表情でこちらを見つめる彼の瞳は、どこか悲しそうだった。
「あのさ……土岐から聞いたよ。昨日のこと。
俺、ひとりで誤解して、君に酷い態度を取ってしまって……」
ぽつぽつと紡がれる言葉は、いつもの桐生さんらしくない。
自信に満ちた彼からは想像できないほど、弱って見えた。
少し俯いたその姿が、なぜかおかしくて。
「ふふっ」
「な、なんで笑う?」
彼が、少しだけ取り乱す。
確かに、笑う場面じゃない。真剣に謝ってくれているのに。
でも、どうしようもなかった。胸がふっと軽くなって、自然と笑みがこぼれてしまった。
「いいんです、もう。分かってもらえたなら……」
ほっとしたせいか、頬がゆるむ。
私の表情を見て、桐生さんも少しだけ力を抜いたように笑った。
張りつめていた空気がやさしくほどけていく。
嬉しい。
こんなふうに、また桐生さんと笑い合えるなんて。
全部、土岐くんのおかげだと、心の中でそっと感謝した。
そのときだった――
突然、腕の中に引き寄せられた。
ふわりと抱きしめられて、息が止まる。
桐生さんの体温、香り、すぐそばで感じる鼓動。一気に押し寄せてきて、頭の中が真っ白になった。
あまりに近くて、視界の端に彼の顔がある。
う、うわ。
心臓が、暴れるみたいに脈を打つ。
「き、桐生さん……」
やっとの思いで声を絞り出すと、彼が低く囁いた。
「好きだ。俺は君が、望月さんが好きだ」
耳元に落ちる声が甘くて、意識が遠のくような感覚に襲われる。
立っているのがやっとだった。
本当に、夢じゃないよね。
体の奥から静かに、でも確かに熱が込み上げてくる。
「あの時の返事、聞かせてくれないか?」
その言葉が、胸の中にまっすぐ届いた。




