第10話 流されて、キス
その日、私は珍しく残業をしていた。
いつもなら難なくこなせる業務も、最近は滞りがちだった。
原因はわかっている。彼だ。
桐生さんのことを考えると頭がうまく働かない。思考が止まり、手の動きも鈍ってしまう。
こんなことは初めてだ。
さらに今日は、あの女性社員たちからの仕打ちが追い打ちをかけた。
正直、少し疲れている。
「はぁー」
大きく息を吐き、手を止めて外を見る。
ガラス越しの景色はやけに綺麗だった。
夜の闇の中で街のネオンがきらきらと輝いている。まるで、夢の世界に迷い込んだみたい。
気づけば、時計は午後九時を指していた。
残っているのは私だけ。さっきまでもう一人いたけれど、先に帰っていった。
そろそろ切り上げるか。
そう思い、最後の仕上げに取り掛かろうとパソコンへ視線を戻した、そのとき。
「望月さん」
声がした。
え……この声は。心臓がトクンと跳ねる。
そっと振り返ると、そこにいたのは桐生さんだった。
驚いて目を丸くする私に彼は歩み寄り、目の前でふわりと微笑む。
そして、小さな袋を差し出した。
「これ、どうぞ」
「へ? は、はあ……」
なんだろう。
紙袋からふわっといい匂いがする。
そっと開けると、焼きたてのサンドイッチだった。
「えっ、これって……」
驚きと同時にはっと気づく。
紙袋に刻まれた店名は、会社の近くの有名店。いつも行列ができていて、簡単には買えない。
もしかしてわざわざ買ってきてくれたの?
桐生さんを見上げると、彼は少し照れたように笑った。
「残業、頑張ってるみたいだったから。差し入れと思ってさ。
お店が閉まる前でよかったよ」
爽やかに言いながら、隣の席の椅子を引いて腰を下ろす。
そして、もう一つの袋を机に置いた。そこから香ばしい匂いが漂ってくる。
「はい、コーヒー」
袋からカップを取り出し、私の方へ差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
突然のことで頭が追いつかない。
なにげなく受け取ってしまったけれどこれでいいのだろうか。こんなことをされる理由が思い当たらない。
「あの! 困ります。なんでこんな――」
「いいじゃん。望月さん、いつも頑張ってるし。たまにはご褒美ってことで」
私の言葉を遮り、にこにこと笑う桐生さん。
そのままコーヒーを一口飲む。
「うん、うまい」
続けて、サンドイッチをぱくり。
「お! おいしい。さすがっ」
マイペースという言葉は、彼のためにあるのかもしれない。
サンドイッチを頬張りながら、桐生さんは私を見た。
「ほら、望月さんも食べな。冷めちゃうよ」
「え? あ、はい……そうですね」
それ以上、何も言えなかった。
私はすっかり彼のペースに乗せられてしまっていた。
結局、二人でサンドイッチを食べた。
コーヒーの最後の一口を飲み終え、ほっと息をつく。
そして、手元に残ったサンドイッチの包みをじっと見つめた。
なんだかんだで平らげてしまった。
だ、だっておいしかったんだもん。さすが名店。伊達じゃない。
「美味しかったね」
「は、はい。あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、桐生さんが表情を和らげた。
「どういたしまして」
にこりと笑うその顔から、目が離せなくなる。
なんて無邪気な笑顔。仕事のときの表情とは違って、どこか柔らかくて、少し幼く見えた。
やだ、なに考えてるのよ。こんなところ誰かに見られたら、また大変なことに。
「あの、もう帰ります」
そそくさとゴミを片付けようとすると、桐生さんが私の分までさっと手を伸ばした。
「いいよ。俺がやっておく」
袋の中へゴミをまとめると、またにこりと笑った。
「そ、そうですか。どうもありがとうございました。では、私はこれで」
これ以上一緒にいると心臓がもたない。
私はさっさと席を立った。
「待って」
腕を掴まれた。
「え……」
振り返ると、彼の真剣な眼差しがまっすぐに向けられていた。
「俺たち、付き合ってみない?」
その言葉が放たれた瞬間、頭が真っ白になり、体が固まったように動けなくなった。
な、ななな!
目をまん丸にして凝視すると、彼の瞳がかすかに揺れた。
「前にも言ったと思うけど。俺は君のことが好きだよ。
今は誰とも付き合ってないんだよね?
俺のこと、嫌い?」
桐生さんは立ち上がり、じりじりと距離を詰めてくる。
「え……な、なにを言ってるんですか? そ、そんな」
「いや?」
至近距離から見つめられ、息が詰まる。
何も考えられない。ただ、視線を逸らせずにいるだけ。
「かわいい」
ぽつりとこぼし、桐生さんはそっと私に口づけた。
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