5 董卓、東へ
「やはり、か」
太尉の馬日磾は竹簡を読み終えると今度はにっこりと微笑んだ。
右扶風に駐屯している前将軍の董卓を并州牧へ除する。その詔に対する返書が届いたのである。
董卓曰く:
「臣は軍を率いる事十年、士卒は地位の上下に関係なく馴れ相親しみ、臣に養われた恩を恋しく思い、国家の為に一度しかない命を奮おうとしてくれています。乞い願わくば州へ移る際にも力を発揮させてください」
つまり、并州牧に異動は構わないが私兵は連れて行くぞ、という身勝手な宣言である。
董卓から兵権を奪う為の第二の策として馬日磾が行なったのは并州牧への転任である。無論、兵や武官は皇甫嵩に引き継いで置いて行くこと、という条件が付いていた。
それを拒否してきたのだが……それは馬日磾の想定を外れるものではなかった。
州牧には任期がある。これに応じた以上、五年後の任期切れで董卓は地位を失うのである。
馬日磾は五年の猶予を得たと思った。だが漢家の命運に猶予は無くもはや旦夕に迫っていた。それが馬日磾の想定には無かったのである。
***
并州牧への異動の為、董卓の配下は忙しく撤退の準備を進めている。
営を同じくする皇甫嵩の陣中では皇甫酈は皇甫嵩に詰め寄っていた。
「失政で天下はもはや倒れかかる寸前。何とかできる力があるのは大人と董卓だけでしょう。今、あちらはこちらを怨み、二者には亀裂があります。共に立つことはできないでしょう」
皇甫酈は従子として皇甫嵩の補佐を行なう身として、どうしても言わねばならないという使命感で口調を荒くした。
「大人は今、元帥として国威の杖を以ってこれを討つのです。上には忠義を顯かにし、下には凶害を除く。これこそ桓文の事です」
桓文とは斉の桓公、晋の文公である。春秋覇者になれ、つまり皇甫嵩の武力で漢家を保護せよというのだ。
(確かに、勝機はある)
移動の準備で大忙しの董卓の兵に統率は失われている。先日王國を撃破した事で後顧の憂いも見当たらない。密かに準備し奇襲を掛ければ董卓の首くらい取れるだろう。
(だがそれは違う)
皇甫嵩の脳裏に閻忠の顔が浮かんだ。敵中で憂死したかつての部下の顔が。だから回答はもう決まっていた。
「命を専にするのは罪だが、誅を専にするのもまた責があるだろう。このことは上奏して顯かにし朝廷の裁きを待てばよろしい」
(綺麗ごとで機を失うか……)
勅命を二度も無視した董卓に厳罰を与えられない朝廷に、そんな事ができる筈が無い。皇甫酈は皇甫嵩の為にひどく残念に思った。
***
まだ部隊が動き出さないこの時、董卓の運命そして漢家の運命が大きく変った。何進からの密使が董卓の元に現れたのである。
「へぇ、へぇ、へぇえーー」
帝の御不予。崩御後に兵を以て洛陽を囲み宦官を一掃する、その為に兵を率いて河南尹で屯し、機会を待て、という命令であった。
(涼州を、あわよくば長安が手に入らねぇかとひっかき回して来たが)
行軍開始を指示した董卓の脳裏には、かつて太守をして土地勘のある河東郡が目標に定まっていた。
(まさか洛陽が転がり込んでくるとはねぇ)
馬上の董卓は部下にも見せなかった卑しい笑いを浮かべた。




