10 廃王國(中平六年2月/189)
秋が終わり冬が来た。依然陳倉は王國の包囲下にあり、城内とは連絡も付かない。董卓のいらいらも続いていた。
陳倉が落ちれば皇甫嵩のせいだが、自分も難を逃れる事はできないだろう。
落ちないにしても、長期化すれば誰かが突き上げ、帝に罷免される可能性がある。そちらも恐ろしい。
だが皇甫嵩は泰然としたもので、なんの心配もいらない、という風に振舞っていた。
(義真は俺を道連れにする為にここに来たのでは?)
涌き起こった猜疑心が消えてくれない。
年が替わった。春の到来である。
「陳倉からの伝令が来ました!王國が撤退を開始しました!」
八十日余りの包囲戦の後、王國が包囲を緩め連絡が可能になったのである。その一報に皇甫嵩が動いた。
「伝令をここへ」
皇甫嵩が聞き取りを行なった。
「王國の撤退時の動きはどうだった?整然としていたか?それとも?」
「氏族の旗毎にばらばらに消えていきました」
皇甫嵩が決断した。
「よし。追撃する!全軍準備せよ!」
皇甫嵩の号令に今度は董卓が異議をとなえた。
「いかんぞ義真!兵法に『窮する寇に迫るなかれ、帰る衆を追うなかれ』とある。今我々が王國を追うのはそれに該当する。追い詰められた獣はなお戦うし、蜂の針にすら毒がある。まして敵は大軍なのだぞ」
この八十日の間、皇甫嵩に反論できるよう、董卓は部下の手解きで兵法書を読み漁っていた。あの日の論破があまりに悔しかったのである。
「然らず」
だが皇甫嵩には軽くいなされた。
「前に私が敵を撃たなかったのはその鋭を避ける為だったが、今これを撃つのはその衰を待ったからだ。疲れた師を撃つのであって帰る衆には非ず。王國の衆は潰走しようとしているのでありもはや闘志はない。整を以て乱を撃つのであり、窮寇に非ず!」
そう言って準備を続けた。
「俺は協力しないぞ!もし窮寇に反撃されたら全軍崩壊するだろうが!」
「では我が兵だけで結構!」
そういうや皇甫嵩は半数の兵だけで出撃した。
「馬鹿が……」
置き去りにされた董卓は陣の守りを固めた。
皇甫嵩に対抗するため、部下の頭のいい奴に頼んで兵法をかじったから判る。帰ろうとする兵は窮鼠であり、半数の兵で撃つのは無謀だと。皇甫嵩が敗北し、相手が勢い付いてこちらに向かって来たら、残る兵と自分だけが右扶風を守る最後の砦なのだ。
しばらくして陳倉方面から伝令がやってきた。
「お味方勝利!西に向け追撃中」
「漢陽との街道で逃げる賊を捕捉!取った首級は万を超えております」
「首級の中に王國のものなし。王國は単身で漢陽に逃走しました!」
届く報告は連戦連勝のものである。
残った自分の部下達から怨嗟の声が上がるのを耳にした。出撃しなかった以上、手柄も略奪もなかったからである。董卓は聞かなかった事にした。
(義真め)
董卓は嫉妬した。
(あの野郎、いつか殺してやる)
そして恨んだ。
***
「いや、やられたやられた。さすが皇甫嵩というべきか。合眾将軍も形無しでしたな」
先に、ほぼ無傷で逃げ戻っていた韓遂は、漢陽郡の境で敗残の王國を出迎えた。
「参ったよ……ハハ」
自分の部隊を置き去りにする事で、身一つでなんとか帰って来れた王國は力無く笑った。
ぐったり下がった王國の両肩をがっしりと抱いた韓遂は笑顔で言った。
「しかし、こうも敗けては合眾将軍の名声ももう使い道がありませんな」
「え?」
左右の者が王國の両手を絞り上げた。
「ぎゃっ!」
組み伏せられた王國に、韓遂はまたも笑顔で言った。
「後の事はご心配無く。他にも我らが仰ぐ頭領はおります」
王國は引きずられていき……歴史から消えた。
涼州から関中との接点にある交通の要衝である漢陽郡には四姓、と言われる四家の有力者がいる。姜家、閻家、任家、趙家である。その力は強く、この地域であれば少々法を枉げることなどなんともない。……例えば、反逆者を匿う事くらい。
西県の郊外にある広大な閻家の荘園で、閻忠はゆっくりと畑を耕していた。春の種蒔きの為にである。かつて皇甫嵩に漢家からの独立を説いた男が帰省してから五回目の春である。
この六年の間に邊章韓遂の乱はいつの間にか王國の乱へと替わり、今も周辺の県は彼らの支配下にある。この荘園が無事なのは漢陽四姓の自衛力と、賊への陰日向での協力関係によるものである。
だが、そんな事は閻忠にとってどうでもよいことだった。
あの日、皇甫嵩に独立を説いた所が閻忠の人生の頂点であった。そしてそれは容れられなかった。漢に弓を引く発言をした以上、官僚に戻るわけにはいかない。もはや自分は死人なのだ。つまり閻忠は燃え尽きていたのである。
そんな閻忠の元に、うさんくさい笑顔で悪意がやって来た。
「やあ閻信都殿、お噂はかねがね」
手勢を引き連れて荘園に侵入して来た韓遂に、閻忠は無言だった。だが韓遂にそれを気にする様子は無い。
「存じておりますぞ。皇甫左将軍に漢家からの独立を勧められたとか」
どこからそれをと問い質たかったが、こういう秘密はどうやっても守られないものである、という事を閻忠は知っている。ただ皇甫嵩に迷惑が掛からないといいが、と念じながら、ただ閻忠は強く口を閉ざした。ギシリと歯が鳴った。
「漢家に反逆するのなら、我々の同志と言ってよい。違いますかな?」
閻忠が無言無反応を貫けたのは韓遂の次の言葉を聞くまでだった。
「と言うことで、高名な卿に我らの旗頭になっていただきたく参上した次第」
「な!?」
韓遂の左右の配下によって閻忠はがっちりと拘束された。
「今後我々は漢陽閻忠の名の元に、涼州で、三輔で悪事を行なう、という事です」
韓遂は真顔で説明した。
「卿はしばらく軟禁させていただきます。なに、取り返しが付かなくなるまでの間です。……大丈夫です。慣れますよ」
そう言って韓遂はにっこりと笑った。
閻忠は拘禁され、荘園から運び出されるとどこか知らない場所に幽閉された。窓、戸の釘付けされた部屋で閻忠は絶望した。
俺が賊の首領?関中にいる左将軍殿の敵になる?ありえない!
閻忠は恥辱のあまり病を発し、死んだ。




