2 星を破る
「うえ?」
桓階は士太夫らしからぬ声を挙げた。長沙郡の治所、臨湘県にある郡の役場に、刀をぶらさげた血塗れの男達がのしのしと入って来たからである。
桓階は自分の口から
「こ、降伏します!」
という声が転び出るのを信じられない思いで聞いた。
***
長沙郡に跳梁する盗賊、區星。この男が周辺の盗賊達を糾合し大規模な反乱を起こしたのはつい先日の事である。一万を越える賊徒が蜂起し、郡内十三県が包囲された。隣接する零陵郡と桂陽郡でも周朝、郭石らの賊が同時に蜂起し、荊州の黄河以南は無法の地となった。
長沙の太守は包囲が完成する前に臨湘の県城から逃げ出したが、その後どうなったのか桓階は知らない。桓階はこの郡の功曹として当座を引き継ぎ、県令と県尉に命じ賊の包囲に対し防衛戦を続けさせていた。
そんな状況で突然現れた血腥い闖入者は、桓階をして城の陥落を観念させるものだったのである。
震えて見守る桓階の目の前で、中央最前列の男が鎧の甲の首の所に手を突っ込んだ。ごそごそと懐を探っている。
男は一枚の板を取り出し、差し出した。血で汚れていたが名刺と思われた。血で汚れ「弟子孫堅 再拝 間起」までしか読めなかった。それに気付いた男が補足した。
「文臺だ。孫文臺。長沙の太守を拝命してやってきた」
そういって腰に提げた綬を持ち上げて見せた。布も血に染まっていて、とても二千石の青綬には見えなかった。
「桓伯緒と申します。この郡の功曹でございます」
とっさにそう答えた後で、涌き起こる疑問が口をついた。
「明府は包囲の中、どうやってこちらへ?」
県城は千人あまりの賊に包囲されていた筈である。
「力ずくだが?」
平然と答える孫堅の後ろから、同行して来た連中が血塗れで補足した。
「賊の油断してる所を後ろから襲ったんですが、県尉が開門してくれなかったんで、無理矢理よじ登って来ました!」
「抵抗したんで県尉斬っちゃいました!すいません!」
「手勢残して来たんで城門は大丈夫だと思いますが」
口々に叫ぶ徒党に、桓階は區星よりこいつらの方が災難なのではとしか思えなかった。
***
「状況は判った。敵は一万以上いるが、十三県に分散して包囲しているわけだな。どうりで少ないと思った」
血を拭って少しさっぱりした姿の孫堅が言った。
「順に、一つ残らず潰す。まずこの城からだ。徳謀!城兵からぎりぎりまで戦力を抽出しろ。反攻軍を編成する」
「どのくらいのぎりぎりがお望みで?」
徳謀と呼ばれた男が聞き返した。
「ぎりぎり守れなくなるくらいだ」
「城壁に取り付かれますぞ」
「そこを襲う」
「承知です」
男が出て行くと孫堅は桓階に向き直った。
「桓功曹。俺は太守になるのはこれが初めてなんでな。いろいろ補佐してくれると助かる」
先程聞いた話では、孫堅は楊州涼州といくつかの反乱鎮圧に功があり、區星の反乱鎮圧のために急拠任命されたのだという。
「はい。なんなりとお申し出ください」
桓階は立場上そう答えたが、すぐに後悔することになる。
「功曹ってのは郡の人事を司る文官、だよな?」
「左様です」
「功曹は顔の広い地元の名家の人間がなると思うが、桓功曹もそうか?」
「まぁそう言うことになりますかね」
ごくごく普通に常識の話だ。太守は本籍地でどうすごしていたのだろう?
「この郡には功曹の家の様な名家は他に何家かあるだろう?知合いか?」
「はい、存じ上げてはいます」
それを聞くと孫堅は屈託ない笑顔で言った。
「じゃぁみんなの私兵を全部俺に預けてくれ。兵は多い程いい」
「……それでは家を悪党から守れなくなります」
桓階はそう答えるのが精いっぱいだった。名家、豪右というのは大量の銭を抱えている。それを守る私兵を出すはずがないだろうが。
「大丈夫。まとめて俺が守るからよ」
「皆断わって来ると思いますが……」
「断わる?……って事は賊に荷担してるって事か?」
声が冷たい。桓階は慌てた。
「もちろん我が家は提供します。各家にもそうさせましょう」
だが災難はそこで終わらなかった。桓階の回答に頷いた孫堅は、話題を次に進めたからである。
「さっそく人事を一件」
「は」
桓階の脳裏に何人か他の名家の若者の顔が浮かぶ。自分の他に被害を分担してくれる者の顔を。
「反攻軍の主簿として桓伯緒を任命する」
一瞬何を言われているかわからなかった。
「……自分は功曹、ですが?」
「兼帯しろ。俸給は両方くれてやる」
「何故、自分が軍に?」
「俺は土地勘がないから案内が欲しいし、名家との交渉役も必要だ。功曹のままじゃ従軍してくれんだろうが?──誰か!功曹に鎧を着せてやれ!」
***
わぁわぁと戦の喧騒が聞こえる。
重い鎧を着込んで桓階がよろよろと城門へたどり着くと、既に正門の門扉の裏には兵が集合していた。その中心で門の外の様子を窺っているのは孫堅である。
声を掛けようとしたところで、末尾に居た男が長い樫の棒をぐいっと突き出した。
「こいつを持ってな」
ずしりとしたソレを桓階が反射的に受け取ると、男はニカっと笑って言った。
「新しい主簿の人だろ?面倒見るよう言われてる。俺は韓義公。よろしくな」
そう名乗った男にバンと肩を叩かれ桓階はよろめいた。
「棒は不満か?最初は刃がついてない方がいいぞ。自分で自分を斬っちまうといけねぇからな」
なにか言いかえさねばならない事があるのだが、思いが錯綜しすぎて言葉が形にならず、桓階は口をパクパクさせるばかり。
(なんで俺が棒なんぞを持たされるんだ)
(主簿は兵隊じゃないぞ)
(なんで太守が門の前に居るんだ?)
やっと言い返す言葉が整理できた桓階だが、男は畳み掛けるように説明を続ける。
「なぁに、やるコタぁ簡単だ。門が開いたら大将が──」
そういって男は孫堅を指さし、
「──突っ込んでくからよ。あんたは──」
手の甲でトンっと桓階の胸を叩いた。
「──それを追いかけりゃいい」
桓階はその手を右手で横にずらすと音を立てて深呼吸した。城壁の上が急に騒がしくなる。賊が取り付いたのだろう。
桓階は呼吸を整えて、ようやく言葉を絞り出した。
「府君が、先頭に?」
「府君?……ああ、太守になったんだったな。おう、そうだとも」
視界の端に孫堅が閂を抜くよう兵に命令しているのが見える。
「お止めしないのか?兵隊じゃないんだぞ?」
二千石の役人のやることではないだろう?そう言いたかった。
「止めて止まる大将じゃねぇよ」
男はいやに愉しそうに言った。
「俺らにできるのは、大将と一緒に走って、一緒に死ぬ事さ」
門がギギギと音を立てて開いた。
桓階は決意した。どんな事をしても孫府君の手の届く場所から逃れねば、と。




