表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺解釈三国志  作者: じる
幕間12 雌伏と雄飛(中平四年/187)
151/173

1 狩猟

 しゅとん。


 矢は狙いたがわず獲物に突き刺さった。野兎は、じたばたと前後の足をもがかせるが、胴を地面に縫い止められもはや逃げる事は叶わないだろう。

 曹操は短刀を抜いて近付くと、兎の頭を掴み首を切断した。後ろ足を掴んで足首にも切れ目を入れ、逆さに持ち上げる。首の断面から血しぶきを散らしながら、兎はゆっくりともがくのを止めた。


 曹操は兎を腰にだらりとぶら下げ、馬を繋いだ場所へ戻った。


(鹿だと嬉しかったんだが)


 田犬りょうけんも勢子も、もちろん車も使わないささやかな田猟かりである。待ち伏せの場所へ通り掛かった獲物を射るだけなのだからあまり贅沢は言えない。


 曹操が近付くと、馬は躾け通り前足を畳んで跪き、曹操の乗馬を助けた。


 馬は森を抜け草原へ、譙の方向へと歩む。小さな農村を幾つか抜けると、周囲に何もない広野に唐突に立つ曹操の精舎が見えて来た。

 

 曹操がここで読書と狩りの日々を送り出してからもう二年になる。最初は売官が始まり、官位を銭で買った実績がつきたくなかったからの隠遁生活であったが、今では更に中央に出仕したくない理由が加わってしまった。父、曹嵩の政界進出である。


「なんだ、お前は仙人にでもなる気か?しかたない、私が行こう。我が家にはまだまだ箔が必要だからな」


 そう言うと──曹操の制止を振り切って──洛陽に行ってしまった。曹騰かんがんの養子であるというよしみで宦官に接近、更に帝にも修宮銭をどんと積んで、まんまと司隷校尉に抜擢された。更にまた銭を積み大司農に転じた。しばらく帰って来る気配がなさそうである。

 父が官界に居る限り、自分が中央官僚に任じられても誰も実力でのし上がった、とは見てくれないだろう。大長秋の孫が父の銭と宦官の伝手で官位を買った、という目で見られるのはとてもじゃないが耐えがたい。


 この事について考えると、せっかく狩りで気晴らししたのが無駄になった気がしてしまい、曹操は視線をあげて譙の郊外の草原の春を意識して楽しむ事にした。


 曹操の馬のいななきを聞き、小柄な少年が門の外まで出て来た。馬の横に静かに並ぶと手綱を取って門へ誘導を始めた。


「父上、お帰りなさいませ」


 長男のこうである。亡き劉夫人の子で、この春十五になったのを期に加冠元服させた。


 昂は高まる、高くなる、という意味である。「我が家では長男には大きさ高さを感じる名前を付けるのだ」という父曹嵩の意見でこの名を与えた。曹操がそういう名ではないのは長男でないからにすぎない。


「今日のご機嫌は?」


 曹操の質問に昂はふるふると首を横に振った。誰の?とは言わないでも通じる。曹昂ら三人の育ての親、丁夫人の事である。今日もご機嫌斜め、という事らしい。


 門を潜った所で曹操は馬を降りた。曹昂が馬を厩へ曳いて行く。


 房の前に丁夫人ご機嫌斜めの原因が庭を掃いていた。卞夫人である。その腹は小さいながら膨らみ、子を宿している事を主張していた。美しい倡家の女、という印象はすっかり消え、地味な服に地味な化粧で一見して婢の様ではある。これが敢えての姿なのを曹操は知っている。


 曹操はぶら下げていた兎を取り出す。


「食って滋養をつけてくれ」


 むろん、腹の子の為である。卞夫人はうやうやしく両手で受け取るとにっこりと笑って礼をした後、主房へ向かって声を掛けた。


「奥様!旦那様が狩りの獲物をお持ち帰りになられました」


 その声に丁夫人が奥から出て来た。卞夫人がだらりと提げた野兎を一瞥すると、顎で奥を指した。


「はい、奥様」


 卞夫人は奥の厨房に入って行った。


 丁夫人は卞夫人をずっと婢の様に扱って来た。曹操の正妻として家中に君臨し、卞夫人に曹操と同衾も許さなかった。卞夫人も丁夫人に従順に応じ、黙々と働いた。


 卞夫人が来てから六年経った一昨年、丁夫人は不機嫌そうに卞夫人との同衾を認めた。丁夫人が三十、卞夫人が二十六になった時の事である。もはや自分に妊娠する力はない、そう諦めたのである。


 そして卞夫人は妊娠した。丁夫人はますます不機嫌になった。劉夫人が残した劉昂ら三人を養育することと、卞夫人を婢の如く扱うことで丁夫人はこの家での居場所を保っているのだ。

 それが判っている曹操は──


「おお、愛する我が妻よ」


 ──大仰に両手を広げて丁夫人を掻き抱こうとした。丁夫人は両手でそれを押し留めた。


「着替えて湯浴みしなさい」

 

 確かに土埃と返り血とで酷いありさまではあった。


 湯を沸かさせ体を拭う。


(困ったものだ)


 丁夫人に子供ができないからといって別れる気はない。愛情はかけらも喪っていないし、ついでにいうと丁家との関係も壊したくはない。


(家中がギスギスしていかんな)


 丁夫人の嫉妬をなんとかしないと、今後産まれて来る子供達がかわいそうである。


 曹操は分析した。


 丁夫人の嫉妬は、卞夫人が子を産むことで、丁夫人そして曹昂ら三人の子供達が家中での立場を失うのではないか?その危惧によるものだろう。


(ならば簡単だな)


 卞夫人の地位だけが上がらない様にすればいい。他にも子を産む女がいれば卞夫人の地位は相対化されるはずだ。


(妾を増やそう。いろんな女に子を産ませよう。それが皆の幸せになる)


 後に兵法の歴史に名を残す男の、機警ちえ権数けいりゃくであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ