4 旅
太陽が地平線すれすれの高さからじりじりと昇って来る。遠い東の空が赤みを増して行く。その太陽に向かって二人は街道を歩いていた。孺子は胸を張って意気揚々と。侏子はとぼとぼとその後ろを。
侏子はもう何度目になるかわからない問いを孺子に投げた。
「あにき、もう帰ろうよ」
侏子は孺子の事を哥と呼んでいる。実のところどちらが年上なのかは判然としない。だから体格の大小、つまり腕力で長幼を決めたのだ。
「いやだね。おいら絶対に文句を言ってやるんだ」
孺子ももう、何度目になるかわからない同じ答えを返した。
そもそもだ、変なおっさんを送って来て「俺に従え」って命令するのが気に食わない。相手は飛燕の親父なんだぞ?張牛角本人が来て頭を下げるべきだろう。
だから孺子は歩みを止めなかった。
張牛角という不心得者が漢昌に居る。その漢昌なら真定の東である。行ったこそないが孺子も知っていた。ならば朝日の方向に向かって行けばいずれ会える筈である。
「チビはオイラが牛角に文句を言ったことの証人になるんだ」
「証人ったって」
チビはあにきに逆らえない。力関係で決まっている。しかたなく侏子は孺子の後ろを追って歩いた。
早朝の真定を歩く。朝の食事時には早いが、もう畑を耕している人達がいる。
「何植えてんだろ?」
孺子が何気なくつぶやいた。
「この時期だと多分、そら豆だね」
侏子はすばやく答えた。
「良く判るな……」
「お手伝いに行けば覚えるよ」
褚燕に貼り付いている孺子と違い、侏子は暇があると近隣の農家を手伝い、食物をもらってくる。
二人が横を通り過ぎるのを見た農家が手を休め、こちらに手を振ってきた。孺子はうれしくなって手を振り返す。
「おいら達も有名になったもんだなぁ」
「……県城のすぐ側だよ?親父さんと一緒に居るのを皆知ってるよ」
二人は──二人だけの事でなく褚燕の養い子は皆そうなのだが──密かに褚燕の事を「親父」と呼んで実の父として敬っていた。だがケジメとして人前ではその言葉を使わないようにしている。自分達が馴れ馴れしくすることで親父の威厳が損なわれたりして欲しくないからだ。
里から里、郷から郷を渡り、二人は東に進む。
「なんか女の人が多いな」
農作業の手を止めて会釈してきた女性の横を通りすぎてから、孺子は気付いた事を口にした。
「この辺の男達はみんな県城で親父の配下になっちゃてるからね。畑仕事やってるより身入りがいいんだもん」
「親父は気前いいもんなぁ」
「もう少しすると粟の植え付けだから、皆帰っちゃうかもしれないね」
侏子の話を聞き流しながら、孺子は持っていた麻袋を開いた。中には栗が入っている。昨秋、冬越しの準備の為に拾った栗の残りだが、急に思い付いて根城を出たのでこんなものしか持って来れなかったのだ。
ガジリ、とざらざらした尻側に齧りつき、歯で鬼皮を剥していく。ペッと鬼皮を吐き出すと、雑に栗をまるごと口に放りこんだ。渋皮をぺっぺと吹き出しながら生栗を咀嚼して行くと、苦みの中にほんのりと甘い味が広がって来る。
侏子は丁寧に指で渋皮を剥いでから口に入れる。
侏子は自分達二人が、孺子の目論見通りに漢昌にたどり着けるとは全く思っていない。漢昌は国境を越えた中山国の中にある。三つも四つの県を越えて行かなければいけない。それより先にこの栗が無くなって、ひもじくなって帰る事になるんだろう。そう合点した上で孺子に付き合っている。
生栗を咀嚼しては油嚢から水を呑む。それを繰り返す無言の時間が続く。
のどかな道を二人はしばらく歩き続けた。
ずいぶんと県城から離れたな、そう侏子が感じた頃、孺子がつぶやいた。
「焦げた匂いがする」
確かに。うっすら木の焼けた匂いがする。しばらく道沿いに歩くと、匂いは徐々に強まって行った。
道の開けた所で孺子がつぶやいた。
「……ここ、知ってる」
侏子が見たそこは焼けた廛の跡である。かつて壮大だっただろう豪右の廛の跡。道に近い所の門が崩され、破れた門の奥に高楼や蔵、房などの焼け残りが崩れていた。
「だいぶ前に親父と攻めた場所だ」
侏子は孺子と違って褚燕の戦さには着いて行っていない。邪魔だろう、と留守を守っている。だからこの場所で何が起きたかは知らない。
「何か特別な場所?」
そう聞いた侏子に孺子は首を横に振った。
「門を破って、銭や食い物を没収して、主と家族を身ひとつで追い出してから焼いた。いつもとおんなじ」
その後で荘園の小作人達に財物をお裾分けし、今後の収穫は豪右に納めなくていいという事を通告し、褚燕の配下になるかを確認したのだが、その辺の記憶は孺子にはない。
「追い出された人達、どうなったのかな?」
「さあ?悪どい奴らなんだからちょっとぐらい酷い目に遭えばいいんだ」
本籍から逃げた流民には国家から畑を与えられる事がない。それに手を差しのべ、自分の私有地……荘園に招き入れ、自分の小作人にするのが豪右である。だが、小作人から豪右が収奪する量は国家の税どころではない。生きるのがぎりぎり、という所まで搾取されるのだ。そんな豪右の連中が裸で放り出されたら、小作人達からどんな復讐をされてもおかしくない。それは二人にとって暗黙の了解事項だったので、話題にもあがらなかった。
二人は焼け跡を通り抜けた。その向こうには道の左右に広大な農地が広がっている。
「みんな楽しそう」
畑を耕す人々の顔に笑顔があった。
冬の間に堅くなった黄土を牛の引く鍬が崩し、ほぐしていく。
「親父のおかげだな」
孺子は誇らしかった。国が、県令が、豪右が奪っていた笑顔を褚燕は取り戻したのだ。だから、孺子が褚燕の秘蔵っ子であることを知っている者は仕事を中断し、手を振ってくれるのである。
広大な農地を抜けようとうする頃には太陽も中天まで上がろうとしていた。
この農地の端に浮かない顔の家族が居た。途方に暮れて畑の間に座っている。孺子は迷わず声を掛けた。
「どうしたの?」
一家の長であろう老人はただ肩を竦めるだけだった。
侏子が重ねて問うた。
「どうしたんですか?」
「子供に言ってもな……」
やっと老人は重い口を開いた。
「畑が堅くてな、手も足も出んのよ」
見るとカチカチの農地は浅くしか耕されていない。侏子はトンっと飛び上がり、それで地面を感触を計った。堅い。これは確かに重労働だ。
「犂は?」
侏子は聞いた。牛が曳く犂があれば、こんな土地でも見る間に耕せる筈である。
「牛も犂も来なくなったよ」
こういう事である。かつて荘園主は自分の牛を、犂を小作人に貸し出していた。割当が均等になるよう、調整してである。だが彼らはもう居ない。調整役の不在をいいことに一部の小作人が結託し、牛と犂を独占したのだという。
人力で引く犂を作れなくもないだろうが、この一家に若い男は居ない。なにより鉄がない。木だけの人力の犂ではとても歯が立たないだろう。
二人は黙ってそこを去った。これ以上老人と話をすると、褚燕への悪口を聞く羽目になりそうだからだ。
あいかわらず東への道を辿りながら、二人は自分の口が重くなったのを感じた。意を決して孺子が口を開いた。
「帰ったら親父になんとかしてもらおう」
頷いた侏子に孺子はたたみかけた。
「親父は絶対良かれと思ってやったと思うんだ」
「実際、みんな笑ってたしね」
「でも、それで困ってしまう人もいるんだな」
侏子はようやく考えをまとめ、答えた。
「親父さんが県を占拠したのは良かれと思っていても不法だもん。もうここに漢の法はなくなった、と思う人が出るのはしょうがないかもね……」
侏子の説明は孺子にはよくわからなかった。せっかく豪右から解き放たれたのに、なんで他人を困らそうとするんだろう?
「親父はどうすればよかったんだろう?」
「県を奪った後、今後も漢の御法は守る様にお触れを出すべきだった──のかな?」
「どうやって?」
「県令に代わって、法を広めて、亭を置いて、守らないと処罰する様にしないと」
孺子はかなり長い距離を歩いてからぴたりと止まって叫んだ。
「……それって劉邦じゃんか」
漢家を興した劉邦は秦を滅ぼした時、秦の厳格な法に苦しむ民に、法を三章に減らすと約束した。史記を親父が読み聞かせてくれたので二人ともそれを知っていた。
「じゃぁ親父が帝になるって事?」
哥の発想の飛躍に侏子は苦笑いした。
***
「ん?」
小さな川を渡った。濡れた足から水滴を蹴り飛ばし、道を歩き始めた所で、孺子は空気が変った事を感じた。
「なんか、変だ」
侏子も頷いた。
「これってもしかして……」
小さな里を通った時、疑問は確信に変った
地勢が、植生が僅かに違う。その違和感だけじゃない。里の人々から、よそものを見つめる隔意を感じたのである。
「たぶん、もう九門県に入ってるんだと思う」
「そういう事?」
孺子がしばらく感じたことのない感覚だった。
この辺の人は親父を恐れてもいなければ尊敬してもいない。だから、自分達の事も、親父の養い子とは見てくれていない。
真定では、身内でなければ敵である。だから赤の他人、というものに久しく接していなかったのである。
「あにき、やっぱり帰ろう?」
侏子が立ち止まった。
「危ない。ここではぼくら、ただの子供だよ」
孺子が手をとって引っ張っても、侏子はほとんど進まずに泣きごとを続けた。
「悪い人拐いとかが来ても、ここには親父さんはいないんだよ?」
親の庇護下から離れる恐怖が侏子の歩みを遅くしたのだ。だが、鈍感と勇気は孺子の得意とするところである。
「大丈夫だって」
孺子は我流の拳法風の構えを取った。
「人拐いなんていちころさ」
二人が拐かされるのに半刻もかからなかった。




