2 豪右(光和七年/184)
空の荷車の列がガラガラと音を立てて進む。空荷の車はちょっとした起伏でもバタバタと暴れるが、押す男達は朗らかである。帰りには満載の食料や銭が乗っているであろうから。
列の中央には悠然と歩く褚燕。
数ヵ月前まで子供達数十人だけの所帯だった褚燕の一味は、今や数千に膨れあがり一大勢力となっていた。むろん黄巾の乱の影響である。
今年の一月、同じ冀州の隣の隣、鉅鹿を根城に太平道の張角が反乱を起こした。黄巾賊の跳梁により県城の反乱占拠を恐れた太守、県令達が職を辞して逃亡。統治の責任者が居なくなった郡県は反乱に為すすべが無くなったのである。これにより全国へ黄巾賊の反乱が広がったのだが、ここ常山では黄巾賊が反乱を起こす代わりに、山賊達がのさばったのである。
山賊達はそれぞれの縄張りで県を襲い、亭を焼き、県の防衛を無力化した。そして豪右を襲い、蔵の財産を奪ったのだ。
役所を襲い、豪右を襲うたびに、褚燕の一味は増えていった。
収穫した粟を悪辣な相場で買い叩く豪右達は暴力で銭を奪われる身となった。役場がその役目を果たせない現状、このまま行けば秋の算の徴収もないだろう。官に従って苦しい思いをするより、一味に入ってこの無税を謳歌する方がいいに決まっている。そう思った者で褚燕の手勢は膨れ上がった。つまり、漢家は税に見合う統治を行なって来なかったツケを払わされているのである。
褚燕は新しい手下にも気前よく戦利品を分配したので、ますます一味は増えていった。膨れ上がっていく手下を食わせる為にも褚燕は今日も略奪に行く。たくさんの小作人を抱える豪右の家を目指して。
突然、褚燕の後ろに静かに影が現れた。荷車と荷車の下を潜って後ろから近付いたのである。
「え!やあぁぁぁぁぁ!」
叫んだ影は長く堅い赤松の棒を褚燕の後頭部に向けて突き出した。棒の先は褚燕の首筋を狙っており、充分に致死の一撃だった。
「ほいッ」
褚燕は後ろを見もしなかった。わずかに首を横に倒して避けると右手でその棒の先端を掴んだ。
刺客は伸ばした棒を引き戻そうとしている時に棒が掴まれたので、前にこてんと転んだ。
「まだまだだなぁ孺子」
「っ!」
振り向いた褚燕の前に大柄な少年の悔しそうな顔があった。
「孺子じゃないっ!」
孺子、と呼ばれた少年は反発した。
「ちゃんとした名をくれよ!」
孺子は褚燕が拾い育てている子供の一人である。親兄弟の記憶もなければ自分の姓も知らない。褚燕はこの子に幼名も付けず、ただ「孺子」と呼んでいる。
「約束は約束だろ?」
孺子はそれが不満で毎日の様に名前をせがんでいるが、褚燕が出した条件が先程の一撃である。
一日に一回だけ。日の出ている間。少年が褚燕に一撃加える事ができたら少年を大人と認めて元服させてやろう、というのである。
元服すれば加冠して名と字が付く。それを励みに少年は毎日様々な方法で襲い掛かって来る。……そして褚燕に簡単にいなされているのである。
「ちぇっ」
「いい加減諦めな?真面目に勉強してちゃんと働く。そしたら貰い手も現れるってもんだぞ」
孺子だってそれは知っている。褚燕の手元には孺子以外にもこういった子供は何人も居るからだ。皆、まちまちのあだ名で呼ばれている。
褚燕はこういった身寄りの無い子供達に里親を見つけ、養子にしてやっている。賢くてよく働く子には引き取り手も多い。実のところ孺子は体も大きいので何度も貰い手は現れているが、本人が断わっているのだ。
孺子はぶっきらぼうに答えた。
「おいら、姓は褚がいい」
「馬鹿言え。お前なんぞに褚を名乗らせるかよ」
「親方のケチ!」
褚燕が頷かなかったので孺子はしぶしぶ隊列後方の定位置に戻っていった。
「……明日は必ず元服してやる!」、
という捨て台詞を残して。毎日この繰り返しなので周囲も平然としている。
(わざわざ盗賊の子なんぞになってどうする。そもそも俺の褚も燕も偽名だぞ……)
実を言うと褚燕が盗賊に身を落したのは子供達の食いぶちに困ってのことである。なのに子供達を使ってまで盗賊稼業を続けているのは大いに矛盾なのであるが、自分は道を外れたし、実際子供達にも手伝わせてはいるものの、それでも子供達が平凡で幸せな人生を送ってくれることこそが、褚燕の願いなのである。
***
塀は高く、門は分厚く、楼は高く聳え立っていた。
「城みたいですよ!頭目」
にわかに増えた部下の誰かが叫ぶ。
それはそうだろうさ。豪右の廛だぞ?下手な県城より「護りたいもの」は多いに決まっている。
足元に矢が突き立つ。思ったより射程が長い。
「危ないぞ!下がれ下がれ!」
褚燕は廛を取り巻く一味を三十歩以上下がらせてから廛の塀へ向かって呼びかけた。
「弩とはなかなか悪辣なものをお持ちじゃないか!」
弩は官軍でないと持っている筈のない兵器である。いかに銭を抱えているとはいえ、そんなものを隠し持っているとはさすがに思わなかった。
塀の向こうから答えが返って来た。
「うるせぇ!怖えぇんならとっとと帰れ!盗人共!」
豪右が抱える食客であろう。なかなか不敵な声である。褚燕はがなり返す。
「官軍の助けなら来ないぞ!」
県城を襲撃し既に銭も武器も接収済みである。一味には県城の下級役人から寝返ったものも含まれている。つまりこの籠城には助けは来ない。だが相手の気勢は衰えない。
「舐めるな盗賊!」
食客にも意地がある、という事くらいは褚燕も理解していた。主の危機を見捨てて逃げた奴、と噂が立ったらどんな一芸に秀でていても金輪際誰も食客にしてくれないだろう。
「どうしても降参しないってか!?」
答えは無かった。褚燕は説得を諦めた。廛の中には食客じゃない使用人も大勢いるのだ。さらに大きく声を張り上げて叫んだ。
「中の誰か!そいつらを捕りおさえて門を開けてくれ!仲間になれば銭は山分けだぞ!」
しばらくして、塀の向こうから叫び声があがり……そして門が開いた。




