11 在外三公(中平三年/186)
翌年二月。長安の張溫の元に辞令がやってきた。
張溫は困惑していた。行車騎将軍から行が抜けたばかりなのに、太尉への辞令が来たのである。
「ということは、後任と交替し、洛陽に戻らねばならんということか」
修宮銭も払わされるのだろう。少し憂鬱になった。
袁滂が別に届いた詔を読んで注釈する。
「いえ、征西軍の編成に変りはなく、太尉は在外して軍を率いよ、と」
「三公なのに主上と離れて軍を率いるのか?どういう事だ?」
「私にも皆目……」
三公が帝の側にいない、という話は未だかつて聞いた事が無い。
張溫は決断した。
「都へ戻ろう。太尉の印綬をひと伝手で戴くわけにもいくまい」
「長安はどうなさいます?」
「公熈殿、お主に託そう。董卓が真面目に勤めていれば長安にそう危機はあるまい」
公熈は袁滂の字である。
かくて張溫は孫堅と陶謙を護衛に洛陽に戻った。
(なるほどな)
帝に謁見し、車騎将軍の印綬を返還し、太尉の印綬を押し戴いた後で、張溫は自分の後任の車騎将軍が誰なのかを知った。
先程まで彼が身に着けていた印綬を頂いたのは大長秋の趙忠だったのである。
順帝の政権奪取に功のあった孫程は死後車騎将軍を追贈された。桓帝を輔け梁冀を自殺に追い込んだ單超は病の床で車騎将軍となり、そのまま死去した。同じく桓帝を輔けた唐衡も車騎将軍を死後追贈されている。
死に行く宦官が、大長秋や中常侍といった宦官の位のままに葬られないで済むよう、車騎将軍は彼らの最期の名誉称号として使われる事があったのである。
実際、十七年前の建寧二年。長樂太僕であった曹節が病に伏せた時、車騎将軍を贈られている。曹節は快癒したので百日余りで車騎を罷免され、中常侍に復帰している。
(にしては元気そうだが……)
艶々と血色もよく宦官らしいふくよかさで、とても死にそうもない。
(唾を付けておく、というところか……)
曹節は病から回復してしまったが故に車騎から中常侍に戻り、大長秋、尚書令まで歴任したが、死後に再度車騎を追贈されているのである。車騎を最終官位として葬られたい、という事なのだろう。
その例に倣えば今車騎になっておけば、死後に追贈してもらえるだろう、という期待なのかもしれない。
(強欲なことだ)
生前の今、悪名を轟かしているのに、死後の名声を気にするなど、バカバカしいの一言であった。だが張溫は空気を読み、政界を渡って来た男である。この事に関し批判めいた事は一切言わなかった。
そして張溫は気配りの人でもある。太尉就任を祝う宴を百官を招いて行なう事を忘れなかった。太尉就任を喜んでいること、車騎を趙忠に譲った事をなんとも思っていないことを印象付ける為である。
その席での事である。
張溫は陶謙に酒を注いで回る様命じた。
無言で酌をし始めた陶謙に安心し、自身も酒を呑み始める。宴会の招待主である以上、客よりも呑むくらいの気持ちがなければ客が安心して呑めない。
しばらくして、宴席の端で銅器の落ちるガランとした響きと、奇怪な叫び声。
高官達と呑み交わし、ほんのりと酒に揺蕩っていた張溫は驚きに酔いから軽く醒めた。
張溫の視線の先には陶謙がいた。赤ら顔で、ふらふらとしている。酌をしながら、自身も呑んで酔っ払ったらしい。足元には青銅の爵が転がっている。周囲の客が撒き散らされた酒を嫌そうに振るい落していた。
注ぐべき酒を自分で呑んで、しこたま酔った陶謙が叫んだ。
「なんで俺が酌などして回らねばならん!そんな事は弱腰の張伯慎がすればいいのだ」
持っていた耳杯を床に叩き付けた。
「董卓なんぞに大きな顔をさせやがって!あんな奴居なくたって、俺が居るだろうが。前涼州だぞ、俺は!」
張溫は陶謙の不満が判った気がした。
陶謙は楊州丹楊の出身である。丹楊兵、といえば中原では知らぬ人のいない強兵の代名詞である。陶謙自身も武張った部分のある男である。しかも前の涼州刺史である。ところが戦で名を上げたのは董卓一人。
内心の不満が酌をさせた事で爆発したのであろう。
(敗者、という意味では董卓も含め、皆なのだがな)
それを表に出さないよう、具体的な損失が指摘されないように張溫は気を配り続けたつもりだったが、陶謙には通じていなかったらしい。
陶謙が奇声を上げ、さらに続けた。
「張溫の奴は長安に籠ってただけで太尉だぞ太尉」
さすがの温厚な張溫もこれには腹を立てた。名を呼び捨てられたことにではなく、太尉就任祝いの宴席を無にする言葉だからだ。
「文臺。声の届かない所へ引き摺り出しなさい」
孫堅が酔っ払いを確保して退席すると、張溫は笑顔に戻って満席の百官に謝罪し、宴を続けた。
翌日、陶謙は左馮翊の辺境に送られた。張溫の側近の立場を失い、重要でもない拠点の守備隊の兵士としての左遷である。
***
「さあ、車騎の仕事をはじめよう!」
趙忠が車騎将軍になったのは、死後の名誉の為でもあるが、それだけではない。もっと実際的な……実利の話があった。
「一昨年の黄巾鎮撫の論功を開始するよ」
外戚の名誉職に近い大将軍と違い、車騎将軍は実働する武人の最高峰である。この発議に異議を唱えられる者は居なかった。
黄巾の乱では帝が宦官達の関与をお疑いになった為、宦官達は反省の表明と無辜の証明という矛盾の為に多くの私財を失ったのである。
──失った以上、取り返すのが道理だよね。
趙忠の牛耳る、口からでまかせの論功の場で、何をしたでもない宦官の縁故が次々と爵位や封地を得ていく。瞬く間に宦官は失った権益を、爵位と封土という形で取り戻していった。実際、趙忠が車騎将軍の位にあったのは百日余りのことで、この後すぐに(形式上は)罷免されている。
士太夫達はこの横暴に無力だった。諦めが先に来ているのである。だが、執金吾の甄舉が異を唱えた。
「傅南容はかつて東軍にあって功があったにも関わらず侯に封じられませんでした。故に天下は失望しました。将軍はまさに重任につかれております。よろしく進んで理を屈し、多くの心によりそってください」
なるほどね。
憎い憎い傅燮ではあるが、帝は彼が戦功を挙げたのを知っている。彼を賞しない、という事が知れたらめんどくさい事になりそうだ。
城門校尉の趙延を呼んだ。弟である。
「延。傅燮は帝の覚え目出度くて殺すも生かすも面倒な奴だ。今回、どうしても奴に賞を与えなきゃならないらしい。これを機会に奴を引き込みたい……できるか?」
「どれくらい積んでいい?」
「いかほどでも。こっちの懐が痛むわけじゃないし」
趙延は登城する傅燮を城門で呼び止めた。
城門校尉が、ただの議郎に、揉み手せんばかりに慇懃に話し掛ける。
「南容殿、黄巾討伐の恩賞が南容殿に与えられる話をご存じですかな?」
傅燮は首を傾げて答えた。
「それが何か?」
「我が兄が、これを機会にいまままでを水に流し、友としなって欲しいと申しております」
傅燮は目を細めて見つめ返すだけで、何も答えなかった。
趙延はにこやかに……作り笑顔で続けた。
「南容殿、我が常侍に答えてくれれば、万戸侯も夢ではありませんぞ」
傅燮は色を変え叫んだ。
「遇と不遇、そは天命なり。功ありて論ぜざる。そは時なり。この傅燮、いかでか私賞を求めようか!」
趙延は城門の前で面罵される、という恥をかかされたのである。
「嫌いだったけど、ますます嫌いになったよ……なんとか殺せないかな」
趙忠は思案したが、帝の機嫌が第一である。
「死地に送り込むのがせいぜいか」
趙忠は帝に傅燮の優秀さがあれば、涼州の問題解決に役に立つはず、と吹き込んだ。その結果、傅燮は漢陽郡の太守として赴任することが決まった。
「これだけじゃ弱いかな?」
趙忠は更なる人選を行なった。検討に検討を重ねた。
「涼州刺史に、できるだけ酷いのを送り込んであげる」
趙忠は笑った。
***
洛陽での事務諸々を終えた張溫は長安に帰還した。
(卒無く代行してくれた袁公熈を労ってやらねばな)
その気持ちで帰って来た張溫を待っていたのは副将袁滂の説教であった。
「陶恭祖は公がその材略を見込んだ人材でございましょう?酒の上の過失を許さず、不毛の地にお棄てになっては、公の厚徳が終わってしまい、四方の人士は誰を頼みにすればよいのでしょう。恨みはお捨てになって、初め同様に厚遇しておやりなさいませ。公の美徳が遠くまで聴こえる様になさいませ」
袁滂は誰の悪口も言った事がないと言う温厚な士太夫である。その彼の強い剣幕に張溫はたじろいだ。
「判った。そうしよう。手配してくれるか?」
袁滂は笑顔で頷いた。
しばらくして長安に帰還した陶謙を袁滂は強く戒めた。
「足下は三公を辱め、自ら罪を作ったのです。今お許し戴いたのですから、その厚徳に感謝し、身を低くして謝りなさい」
陶謙の答えはぶっきらぼうなものだった。
「諾」
袁滂は張溫に告げた。
「陶恭祖は今、深く自責の念を抱いています。思うところが変ったのでしょう。宮門の前でお会いしたいと申しております。よろしければ公から慰めの言葉をいただけないでしょうか?」
長安の──今や主のいなくなった宮殿の、宮門の前で張溫と袁滂と陶謙に逢った。
陶謙は張溫に向かい、拝礼した。
(ようやくわだかまりが解けた)
袁滂は安堵し、張溫に微笑んだ。が、陶謙は張溫の後ろの宮殿を見ながらぼそりと言った。
「謙は朝廷に謝ったのです。公にではありません」
そう言うとその場を立ち去った。残された袁滂は魂を抜かれた様な顔になっていた。張溫は笑って袁滂の肩を叩いた。
「恭祖の病気はまだ直っていないようだな」
張溫は陶謙の為に酒席を設けてやり、その後も厚遇した。
***
危険な旅の末、漢陽郡の治所である冀県に到着した傅燮を待っていたのは見知った顔だった。
「文淵殿ではありませんか」
范津、字は文淵。傅燮にとっては北地郡に居た際に自分を孝廉に推してくれた恩人である。
「後任が南容殿とは。ならば安心して託せるな」
「私もです」
そういうと太守の合符を引き継いだ。
この戦乱の中、郡を治めるには想像を超える苦難があった筈である。悪人が蔓延って当然で、むしろ太守が悪人ということの方が多いのだ。
郡の状況を視察した結果、前任の范津が非常に丁寧に住民を安撫していた事が傅燮にもありありと伝わってきた。
(文淵殿、感謝しますぞ)
傅燮は決意した。漢陽郡で善政を布くことを。
背いた羌族を諭し、手なづける。降伏してきたら田を開墾させ、粟を蒔き、食料を増産する。
降伏した羌族が居住する営が四十以上も連なったという。
***
「気を付けて行けよ!亭に着いたら必ずわしの渡した繻符を見せよ。主らが読めずとも泊めてくれるだろうからな」
そういって太った将が兵の背中に手を振った。それを見ながら賈詡は名簿の名前に墨で線を引いて行く。
「今日は四十一名減りました」
賈詡の報告に董卓は笑顔で応えた。
「里心のついた兵を引き留めても仕方あるまい」
毎度の答えだった。
駐屯から二年。黄巾の乱からだと三年。洛陽付近の三河で徴兵した兵士達は故郷に帰りたがって董卓にそれを訴えるようになっていた。なにせ右扶風といえは西端とはいえ司隷の一部である。同じ州に故郷があると意識したら河内に帰りたいという気持ちになって当然ではないか?
董卓は即決でそれを許していた。董卓は部下に慕われたいのである。渋る事など考えも付かなかった。董卓が許すと知って更に多くの兵が離脱を願った。
往時三万居た兵は二万にまで減っていた。董卓は涼州で募兵を行ない、その穴を埋めていた。結果として、董卓の軍は涼州兵の集団としての性質を急速に深めていた。
賈詡がここに居るのもそれに応じたからである。
董卓、と言うやたら物判りのいい顔をしたがる将軍に何かどす黒い野望や魂胆があるのは感じていたが、この荒れた涼州で故郷の武威郡に居るより、官軍に属していた方が生き延びる可能性が高いと自分の嗅覚が告げていたからである。
若い頃、漢陽の閻忠に「賈文和には張良、陳平の風が有る」と人物評価してもらった事が有る。その風評はちっとも人口にか膾炙しなかった。張良、陳平に比するのはさすがに大げさに過ぎ、誰もが虚言と思ってしまうからであろう。
だが、賈詡自身は、自分には張良、陳平に比する事ができる、と自信を持ってる能力があった。
──生き残ること。
張良も陳平も、西漢初期の粛正の時代を智謀と処世で生き延びた人物である。その部分に関してだけは、賈詡は自分の嗅覚に自信を持っていた。




