10 流星
七万。黄巾の乱の間も編成されなかった規模の大軍が西へ進む。董卓の三万が守る美陽へ進出し、合流する為である。
中軍の中央に、護衛に守られた車に乗って張溫が進む。
自分の部隊を率いて来なかった董卓は、張溫のすぐ側で馬を駆っていた。義従胡の董卓の取り巻きは中軍から排除され、後軍と追随している筈だ。
董卓から見て車を挟んだ向こうに、張溫の車に並べて馬を歩かせている若者が見える。
(孫堅とかいったな。小憎らしい面だ。いずれ殺してやろう)
涼州で子供の頃から馬に親しんでいる董卓の目では、孫堅の馬術は下手としかいいようがなかった。
あんな風に始終落ち着きなく無駄に馬を加減速させていたら、馬が疲れてしまうではないか。もっと馬に委せればいいのに。出仕して以来の運動不足で太ってしまった今でも、自分の馬の方が疲れていないと董卓には断言できた。
(下手くそめ。落馬して死ね)
もう少しで美陽、という所で前軍から伝令が駆け戻って来た。
「敵が美陽に現れました!その数、十万を超えます!」
驚愕する一行の中で、董卓だけが小さく微笑んだ。敵を前にして再編成などできるものではないからだ。
***
賊軍と官軍を分断して南北に流れる雍水。その東岸を官軍の騎兵が疾走している。身軽に動くため、百騎弱の小部隊で南へ向かう。
先頭で率いる陶謙は、しばらく走った所で舌打ちした。
「くそっ」
川向こうの西岸にもほぼ同規模の賊軍が現れ、こちらの様子を窺いながら同じく南下している。
賊軍は雍水の向こう、美陽の県城の西の僅かに高い丘に屯している。戦闘するには雍水の渡河が大前提である。
だが、渡河点に向かうと相手も同数の兵を出してくる。
渡河中の兵は無防備であり、反撃もままならず、転んだだけで簡単に溺れ死ぬ。相当に有利な状況でないとやりたくないのである。こうやって敵に待ち構えられてはたまらない。陶謙は南下を断念した。
***
官軍が雍水を渡ろうとすれば賊軍が防ぐ、という構図でこの数日は硬直している。周慎も、鮑鴻も、陶謙も、孫堅も、董卓も、誰も雍水を渡れていない。
「十万も居るんだ。一斉に渡っちまえばどこかで突破できっだろ」
「相手も十万。渡河中を阻止されたら目も当てられん。少しは考えろ」
焦れた孫堅の意見を陶謙がいなす。
「いちいち考えてたら何もやれねぇだろ!」
他の面々は、二人の議論に口を挟まない。袁滂が代表して張溫に意見を述べる。
「牽制を続けるべきでしょうな。長く釘付けにする程我々が有利です」
兵は飯を食う。十万の兵が腹を満たすには、大量の補給が必要である。官軍には長安から運穀車が出ている。だが賊軍は近隣への略奪で補給している筈だ。そして略奪で奪い取れる範囲には限りが有る。遠方を略奪しても運べないからだ。十万の兵が一箇所に留まる、という事は、地域の食糧が枯渇するという事である。長期戦は不可能なのだ。遠からず賊軍は瓦解する。
張溫が重々しく頷く。
董卓も追従し頷く。だが内心で全く別の事を企図していた。
召喚を無視し美陽から離れずに居た一月の間、兵を休ませながら董卓は李文侯と調整を続けていたのである。無論「落し所」について。
この一戦で涼州が漢から独立できるか?難しいだろう。漢にまだ余力があり、ここで涼州側が兵を損なうと二の矢で平定されかねない。であれば、計画的に負け、兵力を温存して涼州に逃げ帰るべきだろう。その際に死んでも惜しくない、便乗して来た連中を犠牲に、董卓だけが戦果を挙げれればもっとよい。
董卓と李文侯が目論んでいるのは、そういう事である。
***
夜半、陣のどこかで、錚錚たる──金属が雪崩を売って崩れる音がした。
廬落の外から叫び声が上がる。
「流星だ!流星が落ちたぞ!陣のどこかにだ!」
「凶い兆しだ!何か大変な事が起きるぞ!」
陣のそこかしこで悲鳴が上がる。その騒ぎに陣内の馬たちが鳴き声を上げる。馬の叫びの切実さに羌も胡も飛び起き、這い出て来た。
陣の至るところの地面で小さな火が燻っていた。
「何があった!?」
「流星が陣に落ちた!!残り火を消せ!」
寝起きの男の質問に、外の男は一瞬で答え──いや指示を与えた。慌てて男は寝床に使っていた羊の皮で手近な火を叩いて消す。
「皆で手分けして消すんだ!お前はあちらを頼む!」
そういって外に居た男は消えた。
「お、おう」
男は、寝起きのぼんやりした頭で消火作業を続けた。李文侯が部下を使った流言とも知らず。
流星が流れた、自陣に落ちた、残り火を消さねば、これは凶兆である。
いつの間にか、誰も目にしていない流星が、体験した事実となった。陣内は急速に狂躁しはじめた。更に、皆が浮き足立っている中、荷物をまとめて陣を離れる者が続々と出はじめた。
「お前ら、こんな夜中へどこへ行く気だ?」
「金城へ帰る。こんな不吉な場所にいられるか」
恐慌が賊軍をばらばらに砕いた。廬落を畳み荷物を馬に積んで帰る準備を始めるもの、部族の長にお伺いを立てるもの、各々が勝手を始めたのである。
だから気付かなかった。東の空が明るみ始めている事に。見張りが退散し既に機能していない事に。官軍の一部が夜半に渡河を終えている事に。
やっと気付いた。官軍騎兵が陣に突入して来た事で。味方の多くが逃げ出しており、自分達が取り残されている事に。死ぬか逃げるかの局面である事に。
「討て!一人も逃すなよ!」
董卓が先陣を切って突入。号令を掛ける。
「賊の荷には手をかけるな!後で必ず分配してやるからまず陣を奪うぞ!」
戦利品の分配に於いて董卓は絶大な信頼を得ている。配下は喜んで掃討戦を繰り広げた。
十万の賊は散りじりに逃げ去り、董卓は首級数千を挙げた。まごうことなき大勝利である。
***
董卓を待っていたのは本陣への召喚であった。
「何故抜け駆けしやがった?」
孫堅の詰問に董卓は悪びれもしなかった。
「夜半に流星が敵陣に落ちたと報告を受けましてな、実際騒ぎが起きたようなので攻撃したまで」
孫堅の顔があからさまに嘘吐きめ、とあきれ顔になった。征西軍の他の将はそんな報告を部下から受けていないのである。
「実際、長さ十余丈の流星が落ちて総崩れになった、と捕虜が証言しておりますな」
扶風都尉の鮑鴻が董卓を助けた。
董卓は巧妙にも鮑鴻を誘い、扶風都尉の手勢と共同で払暁の渡河攻撃を実施したのである。董卓は戦果も、名声も、征西軍の誰とも共有する気は無かったが、扶風都尉となら別である。そして鮑鴻は利に聡く、董卓の目から見て買収の効く相手なのだった。
「流星は瞬きの間に流れますからな。見張りが見飛ばすのも無理は無い。それより皆さん、こんな所でのんびりしている場合ですかな?今は追撃すべき時では?」
董卓の提案に陣内にため息が流れる。確かにそんな場合ではない。
張溫が命を下した。
「周盪寇の三万は先行し、金城を平定せよ。董破虜の三万は漢陽を平定せよ」
司隷の西端、右扶風から出てすぐの漢陽郡を董卓に委せ、賊の根拠地である金城郡を
周慎に討たせよう、という董卓にだけ勝たせまい、という周慎に配慮した政治的な作戦であった。
***
逃げに逃げ続けた賊の主力は涼州に入っても足を緩めず、漢陽郡を素通りして金城郡に入った瞬間に停止した。
金城郡の東端、楡中城。まるで金城郡への官軍の侵入を拒むかのように賊軍はここに籠城した。
「周盪寇殿。決死隊を募ろう。俺が行く」
孫堅の言に周慎は苦笑した。この戦闘狂に任せていたら兵が泡の様に融けてしまうだろう。
「既に包囲は済んでいる。力攻めするまでもなかろう。城中に大した兵糧があるでなかろうし、時間の問題だろう」
翌日、孫堅は第二の策を寄こしてきた。
「周盪寇殿。別動隊を編成したい。一万程分けてくれ」
これには周慎も唖然とした。三万の兵から一万の別動隊を割けとは。
「別動隊で何をする気だ?」
「餌もねぇのに籠城すんのは変だ。絶対にどっかに抜け穴があって、そこから糧食を運び入れてるに違いねぇ。後方に回ってそいつを討つ。そしたら城は攻めるまでもねぇ。羌族の中に逃げ込むなら追っかけて涼州全体を手に入れられるぜ」
「却下だ。二万では包囲が続けれられん。」
周慎は包囲を続ける事を選んだ。
だが、数日を待たずに、凶報が届いた。
「葵園陜に敵?」
後方から兵糧を運ぶ運穀車が賊の別動隊に襲われた、という生き残りの報告。もたらしたのは恐慌である。
「董卓の野郎、仕事してねぇな……」
孫堅の感想は周慎の耳に届いていない。葵園陜ははるか後方、漢陽郡にある。ここで運穀車が途切れたら、前線三万はたちまち飢える。もはや包囲どころではない。
「長安へ、戻る」
「へ?」
孫堅としては「じゃ、力攻めで一気に落しますか」と言おうとした所なのだが、周慎は既に決断を終えていた。
「長安へ戻るぞ!」
飢え、士気が落ち、敗北して全滅。その懸念を払拭するには長安に戻るしかないと周慎は考えた。
董卓にも期待できない。葵園陜は董卓軍への運穀車も通る場所だからである。つまり征西軍の両先鋒はどちらも危険な状態にある。
重い車両を放棄し、積んだ武器も残し、周慎の三万は長い後退を始めた。飢えと襲撃に怯える長い道のりを。
***
漢陽郡を北に進んで先零羌を攻撃しようとしていた董卓の軍も窮地に陥っていた。
望垣県の北、黄河の支流、渭水を渡った所で羌胡達の反撃を受け、包囲されたのである。
結果として渭水を背に背水の陣を引くことになった。
後方では葵園陜で運穀車が襲われた為に補給も途絶し、飢えはじめた。南に戻ろうにも渭水が横たわっている。まごまごと渡河していたら追撃を受け、渭水で溺れる羽目になるだろう。
董卓軍に絶望が蔓延しそうになった出鼻を、董卓が挫いた。
「大丈夫、全員連れて帰る。だから俺の言うことを聞け」
牛輔ら幕下全員が疑問の目配せで返す。だが董卓は余裕綽綽だった。
「せっかく渭水の北に居るんだ。釣りならぬ魚捕りといこうか」
***
滔々と流れる渭水を背に、車を倒し逆茂木を巡らし、川岸を陣にして官軍が立て籠る。羌胡は矢の届かぬ距離で包囲し、長の指示で時折気勢を上げる。
前線にあってその羌の若者は不満と安堵を両方味わっていた。
不満は、勝手に攻撃するなと命令された事に。安堵も、勝手に攻撃するなと命令された事に、である。
美陽ではわけの判らないまま負けたものの、それ以外は敵を見れば襲い、戦利品を得ていたのである。だが敵はあの董卓。華々しくはないが歴戦の将軍である。攻めれば手痛い反撃を食らうかもしれない。
長の説明では、連中は食い物が尽きているらしい。ほっておけばみるみる弱って行く筈だと。川へ逃げようとしたら、背中から襲えばよいと。
長が攻撃の指示を出すと言っている以上、今はただ待つ時間である。若者はそう自分を納得させた。
だが、今日は少し様子が違った。
董卓軍のごく一部が後ろの川に入って行ったのだ。
「おい、あれ、逃げる気かな?」
若者は隣に尋ねた。
「伝令かもな。追うなら長から指示が出るだろう」
伝令ならこちらも少数を割いて上流か下流で川を渡り、追撃する必要がある。だがすぐに違うと判った。
その兵士達はやおら服を脱ぎ始め、下帯だけの姿になったのである。裸の兵士達はじゃぶじゃぶと渭水に入って行く。
「うわ」
若者の顔が歪む。すでに冬である。馬に乗っての渡河ですら嫌なのに、連中は泳ごうとしているのだ。
実際、裸の兵士達は震え上がり、脇をぴたりと閉じて泣き顔になっている。続いて車を壊したのであろう、荷を置く床板を川に運びいれた。それを衝立の様に立て、斜めに並べ始める。
ホーイホーイ!
裸の兵士達は口々に奇声を上げ始める。
ホーイホーイ!
じゃぶじゃぶと水中を歩き、両手に持った青銅の剣を水中で打ち鳴らし、床板の方に向かって歩く。
「あれって?」
「追い込み漁だな、多分」
斜めにした板に魚を追い込み、板に跳ね上がった所を捕らえよう、というのだ。
「本当に食うものに困っているんだな」
少しでも糧食の足しにしたい、という気分は理解できる。
その努力の成果が床板の上に跳ねあがった。
「小せぇ」
銀色の小さな燐きがピチピチと跳ねる。
「食うトコあるんかね?」
羌胡の陣から思わず失笑が洩れる。とても三万の軍の腹を満たせる量ではない。
冬の冷たい水である。大きな魚は深い静かなところに潜んでいるのだろう。両軍にまったりした空気が漂った。労力を掛けた漁は失敗に終わったように見えた。
翌日。
払暁と共に董卓軍は移動を開始した。川を渡って撤退しようというのだ
「長の指示は?」
「弓の届かぬ距離までは詰め、後拒が水に入ったら突撃だと」
最後方を守る兵士は必死であろう。近寄れば弓で狙ってくるだろう。だが彼らも水に入った瞬間に逃げることしか考えなくなる。そこを襲えばなんなく背中から斬れる筈である。後は背中を斬りながら密着して追えば対岸の敵も打てまい。難なく総崩れにできるだろう。
羌胡は半ばが渡るのを見守りながらじりじりと迫った。
最後まで北岸で粘った官兵が弓を捨て、背を向けて渭水に入った。
「行け!」
長の指示で全軍が追撃に移る。
先を行く官軍の兵は腰までの水をやすやすと渡っている。
若者は対岸への一番乗りを競って、河原を駆け抜けた。
どぼっ!
(うっ!)
身を切るような冷たい水が靴の中に侵入する。
(くそっ!官兵共だって渡ってるのにおじけてたまるか!)
覚悟を決めて腰まで水に浸かり、官軍を追いかける。
(弓を使わせてくれればいいのに)
何故か弓で追い討ちする事を許さなかった長を恨みながらざぶざぶと追いかける。
もう少しで官兵の背に手が届く、というところで若者は剣を抜いた。足は自分の方が早い。官兵の背中に目掛け剣を振り上げた。
ドブン
急に足元に何も無くなり、若者は水中に沈んだ。
(つ!)
冷たい。鼻に水が入り、激痛が襲う。突然水中に沈んだのだ、とようやく自覚する。苦しい、必死にもがく。装備が重い。剣を捨て、必死にもがき続けた。
プハッ
なんとか浮き上がり、鼻から口から水を吹き出す。バタバタともがき続け、やっと元の足場に泳ぎ付いた。
「何があった!?」
後続の問いにずぶ濡れで叫ぶ。
「橋だ!橋が崩れてる!」
若者は水中で、石の重りを括り付けた板が沈められているのを見た。官兵はそれを伝って深みを乗り越えたのである。最後の官兵がそれをずらし、橋として役に立たなくしたのである。
「もう渡れねぇよ!」
若者は対岸を睨んだ。遠く対岸で立派な鎧を来た太った男が何故かにこやかにこちらに手を振っていた。
「くそっ」
歯噛みする。だがガチガチと歯が鳴るのは悔しさのせいか、寒さのせいか、唇を紫にした若者には自身でも判然としなかった。
***
美陽での戦いで三輔から賊軍を追い出した張溫の征西軍だが、涼州に入ってからは散々だった。
各路に送った全軍の中で無事に戻って来れたのは董卓の軍だけ。当然涼州鎮圧はならなかったのである。
だが董卓は長安に戻らなかった。
「無事な我が軍が三輔の為に扶風に駐屯します」
それだけ通告すると右扶風に勝手に陣を張った。兵の損耗した張溫はそれを止める事ができなかった。
三輔から反乱軍は追い出され、一応の平和は得られた。官軍としての最低限の任務は果たされたといっていい。
涼州は極めて治安の悪化した状態にある。金城は邊章韓遂に占領され、隴西は北宮伯玉が荒らし、宋建が故郷の県を占拠する。州治の漢陽はかろうじて漢朝の支配下であるのが救いという状態。
北地郡では先零羌が三輔を窺っており、董卓の三万の防衛が無ければまたも侵略を許してしまうだろう、という危機感が、董卓の独断を正当化した。
これより官軍の積極策は鳴りを潜める。三輔の防衛に専念したのである。




