7 英雄失陥
県城はぎりぎりの所で陥落を免れていた。だが肝心の胡の騎兵は居ない。
「また、ですな」
甥の皇甫酈 《こうほれき》の報告に皇甫嵩は苦虫を噛み潰したような顔になった。
賊は神出鬼没で本隊の位置を掴ませない。斥候の情報を得て賊の襲っている県を救出に行っても、賊は立ち去っている。
「やはり内通者がいるのでは……」
「邪推はよせ」
敵の斥候を見つけられないだけかもしれない。こちらの情報不足も否めない。
「邊章と韓遂という漢人のしわざかもしれぬ」
賊は五里十里ごとに点在する郵や亭を出会い次第焼いていた。郵という耳、亭という目を潰されると、各県は完全に孤立してしまう。それだけではない。官軍も周辺の情報が得られなくっているのである。先に耳目を奪う、という作戦は漢人のしわざではないかと思われた。
「機動力が足りないのが痛いな。烏桓兵が三千ばかり欲しい。帰ったら上表しよう」
***
「父上!」
皇甫嵩の帰陣を知り、息子の堅寿がとたとたと天幕からっ飛び出して来た。涼州の護りである皇甫一族の務めとして、皇甫嵩も一族の若者を戦場に連れて来ているのだ。自分もそうだったように。
「今日は何をして過ごした?」
皇甫嵩は太い指でがっちりと息子の両肩をつかんで尋ねた。戦場に連れて来るために早々に元服させてしまった為、冠が邪魔で頭を撫でることができないのが父として少々不満であった。
「仲穎様に弓を習いました!」
堅寿の後ろから、のっそりと太った男がやってきて朗らかに言った。
「卓にお教えできる事は馬と弓だけですからなぁ」
董卓はにこやかに皇甫堅寿に笑い掛ける。
「もそっと大きくなられましたら、馬もお教え差し上げましょう」
上機嫌な息子をそっと董卓から引き剥がすと皇甫嵩は無言でぺこりと礼をした。
董卓は本陣に留守居である。だが彼の能力を信じて防衛させているわけではない。
合流初日、董卓は並ぶ兵の前で消極策を開陳した。
「羌胡の兵は数万騎と言われるがいまや実数がしれぬ。こちらは歩兵中心の三万。まともに当たれば危うい。兵が補充されるまでは専守防衛に徹するべきでしょうな」
「やりようはいくらでもある」
皇甫嵩は自信を持って答えた。多いなら、分断し、各個撃破するのみである。
「俺は自分の兵を無駄死にさせたくないぞ!」
董卓の叫びは、皇甫嵩には何の感慨ももたらさなかった。だが、兵達には違ったようで、董卓の配下になりたがる者がぼろぼろとでてしまった。
そういう懦弱な兵を董卓にまとめさせ、本陣の守りとせざるを得なかったのである。
皇甫酈は、なにかと消極的な董卓が内通者ではないかと疑っている。だが従弟の堅寿に聞いた限り、留守中の董卓に怪しいところはなかった。そもそも、出陣時点で伯父の軍がどう動くか董卓には知らせていない。
(だが、董卓がなにかやっている筈なんだ!)
皇甫酈は確信していた。
***
(腸が煮える)
董卓は自分の天幕へ戻ってから、嫌悪に顔を顰めていた。天幕の布は薄く、いらつきを声に出すことは憚られた。
董卓は今日一日、皇甫嵩の息子の機嫌を取った。その自分が許せなかった。董卓の父はかつて皇甫家の下で使い走りをしていた時期がある。皇甫の下につく事は嫌でも皇甫家と董家の上下を思い出させた。
(だが持つべき者は友、だな)
冀州下曲陽で黄巾に敗北した事を罪に問われた董卓だが、李文侯らが反乱を起こしたことで許され、涼州遠征軍の中郎将として復権することが出来た。左車騎将軍となった皇甫嵩の配下として、である。
実際、董卓は盟友である李文侯と内通している。皇甫嵩の作戦は反乱軍に筒抜けなのだ。そして情報を横流しすれば皇甫嵩に疑われることも予想していた。
(判るまいよ)
董卓は李文侯の使いと接触していない。弟の旻にもさせていないし、配下の誰にも接触させていない。
内通者は皇甫嵩の部隊内に潜んでいる。牛輔、という若者が、隙を見て情報を残している。彼が董卓の娘の婿である、という事をここでは誰も知らない。
(戦果など与えてやるものか)
これから皇甫嵩の作戦はすべて羌賊につつ抜けになる。
(引きずり降ろしてやる)
董卓はにやにやと笑った。




