4 忠を忘れず(中平二年/185)
涼州で涌き起こった邊章と韓遂の乱は涼州を席巻しただけではない。翌、中平二年の春には、反乱開始から僅か数ヵ月で数万騎に膨れ上がった羌の軍勢が三輔に侵入した。事ここに至り、長安防衛の命が冀州牧の皇甫嵩に下された。
「涼州鎮圧ではなく?」
「……国庫が厳しいようですね」
閻忠が答えた。黄巾の乱で逃げ出した前の信都令の後任としてやってきたはいいものの、着任早々、安平国自体が廃止された為に解任され、涼州出身のよしみで皇甫嵩を頼ってきた男である。
「兵に通達を。涼州へ向かう準備を開始せよ、と。太守たちへは「お待ちください」
閻忠は皇甫嵩の命令を遮った。皇甫嵩は「なぜ?」という顔で閻忠を凝視している。
閻忠は深いため息をついてから言った。
「失って得がたいのが時というもの。時至っても踵を返し戻らぬのが機というものです。故に、聖人は時に順って動き、智者は機を見て発するのです。今、将軍は得がたい運をお持ちで、驚くべき機にさしかかっておいでです。ですのに運を利用されず、機に臨んで発されようとしません。将軍はどうやってその大名を保たれるおつもりですか?」
「何が言いたい?」
閻忠は強い口調で説得を開始した。
「天道はあまねく全てに公平であるとか。今、将軍は春に鉞を受け冬には功を収められました。兵を動かせば神の如く、謀は数えきれず、旬月の間に神兵は雷の如く一掃し、強きを折り、堅きを溶かし、七州を席巻し、三十六万の方を屠り、黄巾の師を潰し、邪害の患を除き、南を向いて徳に報い、威徳は本朝を震わしております。風聞は海外まで馳せ、湯王、武王といえども将軍の高みにはございません。今、賞せない程の功をたて身は高人の徳を備えておりますのに、庸主に北面ていては、どうして安んじられますでしょうか?」
皇甫嵩はようやく閻忠の言いたいことが判った。ここまで昇り詰めた以上、宦官の讒言で転がり落ちるしかない。その前に独立しろ、というのだ。
「心は忠を忘れず。何ゆえ安んじられぬと?」
そんな野心は皇甫嵩にはない。考えたこともない。国家に忠義を尽くすのが本分。そう思って生きて来たのだ。
「違うのです。昔、韓信は高祖の恩に天下三分の利を棄て、蒯通の忠と鼎跱の勢を拒み、喉に剣を当てられてから悔い嘆きましたが、これぞ婦女によって煮られる原因だったのです。今、主上の勢いは劉・項より弱く、将軍の権は淮陰侯より重いのです」
かつて蒯通は齊王韓信に漢からの独立を進言した。しかし韓信は劉邦の恩を捨てきれず、その言に従わなかった。そして後に処刑される時に蒯通の計を用いなかった事を悔いたという。
閻忠はこの話をしながら、まさに自分が蒯通の立場になっている事に気付いていた。
(と言うことは、これはうまく行かない流れなのか?)
いや、そんな事にはさせない。閻忠は自分を奮い立たせ、言葉を繋いだ。
「将軍は指揮すれば風雲を起こし、叱咤すれば雷電を興す事すらできるでしょう。勢いに乗り危きを崩し、先に降伏する者は崇恩を以て許し、まだ服そうとしない者には武を振るって臨み、冀州の士を募り、七州の衆を動かし、前に於いては羽檄を先に馳せさせ、後ろに於いては大軍の響きを振るわせ、漳河の流れを蹈り孟津で馬に飲させ、天網を以て京都を網羅し、閹官の罪を誅し、積年の怨みを除けばこの現状を解消することができましょう。さすれば攻めて落せぬ堅城なく、招かずともみな影の様に従い、童子であっても拳を奮わせ、女子であっても裾をからげて命を掛けさせることができましょう。」
皇甫嵩は我慢強く聴いてくれているが、表情には熱が感じられない。閻忠は説得を望むあまり言葉が大仰になっていった。
「ましてや熊の如き兵士がいるのです。風のごとき勢いでしょう。功が成れば天下は順い、上帝に請うて天命を示し、天地四方を統一し、南面して制し、神器を移し、亡漢の帝位を継ぐのです。まことに今は神機の至る所に会し、風の発するに良き時です。朽ちた木は彫られず衰えた世は佐け難いものです。将軍が朝廷を佐けんと欲してもそれは朽ち木に彫刻し、玉に坂を登らせるようなもので、できるものではありません。」
閻忠は威勢のいい天下簒奪の情景を描いて見せた。だがそれは空虚な虚像ではない。皇甫嵩は冀州牧である。州を束ね、しかも兵を従えている。それも黄巾賊と戦いを繰り広げた歴戦の戦士達である。三河で招集した彼らが洛陽に向け進軍するのに賛同しない筈が無い。
だが閻忠の言葉は皇甫嵩を昂ぶらせる事はないようだった。しかたなく閻忠は論調を変えた。
「今、宦官は群居し悪は市で売る程あります。上の命は届かず権は近習に帰しています。昏主の下に居るのは難しいものです。賞せない程の功には讒人が側目を使うでしょう。早く動かなければ後悔してもどうにもならないことになるでしょう」
亢竜悔いあり。保身をしなければ破滅するぞ、という説得である。
だが、皇甫嵩は静かに首を横に振るのみだった。
閻忠は自分が蒯通になったと悟った。閻忠が皇甫嵩に持ち掛けたのはまぎれもない反逆、簒奪の提案である。自分がこのまま皇甫嵩の元に居てはどちらの為にもならないだろう。閻忠は冀州から逃げ出した。




