3 北巡(中平二年/185)
光和七年十二月、帝劉宏は元号を光和から中平へと改元した。これは黄巾の乱の鎮圧を記念したものであるが、この年に起きていた反乱は黄巾の乱だけではない。
六月。遠く南の果て交州で屯兵が反乱。刺史と太守を捕らえ「柱天將軍」を自称した。
新たに刺史として派遣された賈琮 《かそう》が善政を布く事で解決した。
七月には益州巴郡で太平道とは別の宗派の道教集団が反乱を起こす。教祖として尊崇を集める張脩が次々と県を襲い、官吏を追い出して実質的に自治を開始した。
そして十一月。涼州の東側、つい先日まで皇甫嵩が治めていた北地郡で、先零羌が反乱を起こした。先頭に立つのは李文侯。同時に涼州の西側では湟中義従胡の北宮伯玉が反乱した。
黄巾の対応で後手に回った漢朝の足元を見たのか、ここから帝劉宏の治世は急速に反乱に彩られていく事になる。
年が改まって中平二年となった。帝劉宏は政務に疲れていた。
度重なる反乱と不甲斐ない将軍達に。下から突き上げて来る士太夫達の告発と、宦官達の涙の訴えとの矛盾に。
(帰りたいな……朕が朕では無かったあの頃に)
故郷解瀆の貧相な館が、途方もなく懐かしくなっていた。
もっとも、帝が解瀆を出て十六年。その館は風化し既に崩壊していた。河間国の民にその再建が命じられていた。これを諌めていた中常侍の呂強も、既にいない。
「北巡の道中は万事この芬へお任せいただきたく存じます。まずは道中の安全を確保できるか確認いたします」
車騎将軍として涼州反乱の鎮圧に出征した皇甫嵩に代わり、新任の冀州刺史となった王芬はそう請け負った。王芬は冀州刺史として任地に赴任する前に、洛陽でその調整を計っていた。
***
「どうでした?」
洛陽の別宅へ帰宅した王芬を待っていたのは南陽の人、許攸である。
「……今日は言い出す機会はなかったな」
王芬は、今上の事を暗愚だと思っている。宦官にいいように支配され、多くの民が苦しみ、結果黄巾の乱を起こされる羽目になってしまった。
冀州刺史が内定した時、既に心を決めていた。帝を冀州に誘い込み、無防備な旅先で捕まえ、廃位を強要してやろうと。
その手足となってもらうべく、同郷の有名人、陶丘洪と華歆をそれとなく誘った。いや、少しあからさま過ぎたかもしれない。二人は誘いにのってくれなかった。
彼ら二人に代わって手足となったのが許子遠。彼が反宦官の結社である「奔走の友」の一員であることは知る人は知っている。
王芬が、許攸と詰めた計画はこうである。
帝の北巡を促し、洛陽から冀州にお迎えする。そこを冀州の兵で襲い、帝を拉致し、廃位を強要する。だが、その為には冀州に王芬の手兵が必要である。帝を護衛する禁軍を打ち負かすだけの兵力が要る。
王芬は、軍権を持たない冀州刺史でなく、軍権を持つ冀州牧へ除してもらおうと運動を行なっていた。
「だが時はこちらの味方だ」
黄巾の乱で荒れた冀州へ行くのである。まだ安全でない、といえば帝は焦れるだろう。焦れてくれれば自分を冀州牧にしてでも、道中の安全を確保させてくれる筈だ。




