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俺解釈三国志  作者: じる
第八話 歳在甲子(光和七年/184)
122/173

15 勝利

 兗州で蜂起した東郡黄巾の渠帥は卜己ぼくきという。無論、本名ではない。占いを善くする故に称した号である。


 卜己は東郡に向かって来る将が皇甫嵩であると知った。豫州での皇甫嵩のいさおしも聞いた。東郡の黄巾は豫州程の規模を持たない。官軍を圧倒する戦力、というわけではなかった。


(降伏しようか)


 だが、戦わずに降伏するのは味方が許すまい。卜己は筮竹をシャラシャラと鳴らした。


「東だ。東が迎撃に吉と出ている」

「いや、今度は北東が恵方である」


 黄巾の部隊を引きずり回し、県から県へ逃走し、皇甫嵩との決戦を先延ばしにした。少しずつ、少しずつ、黄巾党内に厭戦気分が広ろがっていった。卜己への不信感も。

 

 黄河のほとり、倉亭津の渡し場まで黄巾は追い詰められた。


「今、降伏するのが大吉と出た!」


 卜己の身勝手な宣言に誰も抗わなかった。


 だが皇甫嵩は許さなかった。斬首刑が執行され、七千の首が落ちた。そこに卜己の首もあった。


 戦場の事後を処理しながら、皇甫嵩は次の算段を始めた。


「南容。徐州と楊州の地形に明るいものを探してくれ」


 冀州の張角攻めは盧植の後を董卓が継いだと聞いた。であれば、徐州は下邳国に攻め込んだ楊州黄巾が次の相手だろう。


 だが皇甫嵩に下った命令は、意外にも張角攻めだった。


「東中郎は?」


 董卓と共闘したことはないが、そこそこの将だった筈。


「緒戦での敗北が罪にあたり、都へ召喚されました」


 ここ倉亭津を渡ればすぐ冀州である。反論し反対する様な勅ではなかった。だが、辞令の勅を持って来た使者に問うべきことではないと思ったが、好奇心から尋ねた。


「では、誰が楊州の黄巾に向かう事に?」

「楊州の黄巾は消えました。対策は不要とのことです」


 使者の回答はいつも平静な皇甫嵩をも驚愕させる内容だった。


 下邳を万余で占拠していた筈の楊州の黄巾は、誰からも攻められていないのに、姿を消したというのである。


***


「済みましたか?」


 かつて国王の館だった場所で陳珪は尋ねた。


「御仏の御加護がありましたので」


 応える禿頭の男。闕宣という。下邳で浮屠の教えを広める、宗教指導者である。


「ここで罪無き衆生に対し悪業を繰り返していたのです。ちいさな虫にでも生まれ変わって、善行を積み直してもらいましょう」


 そういって闕宣は合掌した。


 下邳の町に分散し宿を取っていた楊州黄巾は、今は下邳郊外の土盛りの下で眠っている。町の住民があまりに従順だった為に警戒を怠った故の末路だった。


 陳珪も静かに合掌し、彼らの冥福を祈った。


***


 傅燮は書き貯めていた竹簡を勅使に預け、書奏を依頼した。


 勝利を重ねる皇甫嵩の護軍司馬の上疏である。帝の興味を引き、その目に触れる事になった。


曰く「臣は天下の禍は外からの理由ではなく、みな内側より起きると聞いています。これゆえ虞舜は朝に昇るとまず四凶を除き、しかる後十六相を用いました。悪人が去らぬのであれば善人が進み出る事はありません。今張角は趙・魏の黄巾で六州に乱を起こしております。これは皆、蕭牆ちょうてい内より発した争いが四海に及んだものです」


 この段階で随伴していた趙忠には宦官批判であると理解できた。


「臣はいくさの任を受け、辞を奉じて罪を伐ち、潁川から始めて戦で剋たないということはありませんでした。黄巾が盛んといえども、廟堂ちょうていの憂いとなるほどではございません。臣の懼れるのは水を治めるにその源よりせぬことで、末流がますます広がってしまうことでございます」


 帝劉宏は「冗長だな」と思いはじめた。


「陛下の仁徳寛容をいいことに宦官は権力を握り、忠臣は進み出る事ができておりません。張角を族滅すれば黄巾の者を正道に戻すことはできましょうから、臣の憂える所は宦官と忠臣の件のみでございます。邪と正が国を共にするのは氷と炭を同じ器に入れるのと同じく、宜しくございません。邪の人が正の人の功が顕らかになると知れば危亡の兆しと見、言葉巧みに偽りを述べるでしょう。そもそも孝子であっても度々讒言を聞けば疑い、三人嘘を言えば市場に虎が現れるものです。もし讒言の真偽を詳かにしなければ、忠臣は今後もたびたび杜郵の戮を受ける事になるでしょう」


 杜郵は白起が死を賜った地である。無辜の忠臣が殺されることをいう。


「陛下には虞舜が四罪を挙げた事を思われ、速かに讒佞を追誅し、善人に思いを進めて、姦凶をやめさせるがよろしいでしょう。臣は『忠臣の君に仕えるは孝子が父に仕えるがごとし』と聞きます。子の父に仕える時、その情を尽くさずにおれましょうか?臣の身に斧鉞の戮がふりかかろうとも、陛下が私の言を少しでも使ってくだされば、国の福というものでございます」


 趙忠はこの上疏を聞き、傅燮を憎んだ。


 後の事である。功績を上げた傅燮を趙忠は讒言し訴えた。帝劉宏は傅燮を罰しなかったが、褒賞もまた見送られた。結果として傅燮は功名をふいにした。しかし本人は南容の名に恥じぬ言葉の使い方だ、そう自負していた。


***


 北上した皇甫嵩の隊は何の抵抗もなく鉅鹿郡に入った。廣宗県は宗員が未だ包囲を続けてくれていた。幽州黄巾は董卓の反撃で足腰が立たない程弱っており、下曲陽から進軍できていなかった。


「皆に申し訳ないな」


 盧植が、董卓が、地ならしをしてくれた所に勝利の果実をもぎとりに来た形になる。



 二ヵ月に渡る籠城で、廣宗の城砦内には飢えが広がっていた。


 廣宗はもともとそれほど大都市ではなく、本部道場を合わせてもそれほど多くの備蓄を保管する場所はなかった。なのに本部道場を護ろうとする熱心な信者が集まり、食い扶持は多かったのである。


 人公将軍張梁は、元々恵まれた体格ではなかったが、今や痩せこけた枯れ草の様な体になっており、目だけがぎろぎろと光っていた。


 皆が人公将軍と──実際にはこの世に居ない天公将軍の為に食を割いてくれたが、張梁はそれを拒否し、皆に分け与えていた。


 本質的に人助けを生業としてきた彼に、自分だけ肥え太っているというのは耐えられなかったのだ。


(城の外はどうなっているのだろう?)


 長い籠城で、外との交通は遮断されている。太平道の信者達が、今どこでどうしているのか全くわからないのが不安である。


 解囲に来てくれる幽州黄巾、そして、兄の地公将軍張寶はどうなったのだろうか?来てくれていない、というのは、考えたくない事態が起きたのだろうか?


 張梁は不安しかない生活の中で、包囲陣に皇甫嵩が加わっていると知った。皇甫嵩は潁川で波才を撃破した男である。全国での蜂起が鎮圧されつつある事が判った。


(一戦するなら兵達が飢えて戦う力を無くす前にしないと)

 

 決断した。やろう。兄は、幽州黄巾は、きっと来ない。豫州から冀州までの間の黄巾も鎮圧されているだろう。


 幽鬼の様な人公将軍が陣頭に立ち、黄巾本隊が廣宗城門から打って出た。


(さすがは教団本部の兵。これは簡単ではないな)


 人公将軍の執念が乗り移った様な死兵。ひと当てした瞬間、皇甫嵩は相手の強さを確信した。即引き鉦を鳴らさせ、土塁に兵を戻した。

 

 翌日は土塁を堅く守備させ、出撃を禁じた。


 城外に出たからといって飢えがおさまるわけではない。時間が経つにつれ、黄巾賊に疲れが見えて来た。警戒が疎かになっていた。


「明朝、鶏鳴を合図に奇襲する」


 払暁の、まだ薄暗く、物の見えづらい時間に、皇甫嵩は奇襲を掛けた。だがさすが黄巾本隊である。即反撃を開始し激戦となった。戦は夕方まで続いた。士気は衰えることのない黄巾賊だったが飢えた体である。体力が尽き、次々と倒れていった。


 張梁は奮戦の結果、動けなくなった所を捕獲され斬られた。皇甫嵩が得た首の数は三万。殺された者五万。焼かれた車両三万、そこに乗っていた婦女子をことごとく捕虜とした。


 戦勝したが張本人の張角の行方が知れない、という報告を洛陽に送った皇甫嵩は、都より唐周の密告の内容を伝えられ、墓を暴き張角の死体を得た。乾いた張角の首が洛陽へ送られた。


 人質になっていた諸侯王も救出され、都へ送られた。もっとも安平国王劉續などは、捕まった事自体を帝に許されず、誅されている。


(ほとんど終わったな)


 皇甫嵩は一段落したと思った。


 残るは下曲陽から一歩も出ない幽州黄巾である。


 偵察によると、董卓と痛み分けしたものの、残党というには多い兵力をいまだ保持しているという。指揮官は地公将軍張寶。


(何故連中は救援に来なかった?)


 それだけが疑問だった。


***


「私は、みんなに命令し、壁を登らせ、死なせましたっ!」


 地公将軍、と呼ばれる大男が仮設の道観で泣いていた。


 自分の指揮で、董卓を追撃し、自分の指揮で、多くの部下を死なせた事が、この男には耐えられなかったのである。


 罪の告白は太平道の治療術の根本に位置している。だが、自分の罪をなんど天に告白しても、張寶は自分が癒えたとは思えなかった。



 十一月。皇甫嵩は下曲陽へ進軍。

 士気が上がらず、指揮もあいまいな黄巾賊では皇甫嵩の敵にはならなかった。黄巾賊は壊滅し、皇甫嵩は地公将軍張寶を斬った。


 そこで得た十万余りの首を使い、皇甫嵩は、下曲陽城の南に京観を築かせた。


 京観は、遠征軍が現地で作る、生首を積み上げた記念碑である。偉大なる勝利の記念であり、そして地元への警告である。


 皇甫嵩の性格を反映し、首は正確にきちんとすき間無く積み上げられ聳え立っていた。すさまじい屍臭を放ちながら。


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